何を選び、どう動き、いかに生きるか。それを決めるのは、実は「無意識」です。表面的な意識よりも、深いところにある無意識が元になっている場合が多いと。
そもそも一つの現象に接しているのに見方が人によって異なり、同じ出来事に遭遇しているのに人それぞれ反応が違うのは、無意識の領域に存在している「何か」が個々別々だからです。
何を選び、どう動き、いかに生きるか。それを決めるのは、実は「無意識」です。表面的な意識よりも、深いところにある無意識が元になっている場合が多いと。
そもそも一つの現象に接しているのに見方が人によって異なり、同じ出来事に遭遇しているのに人それぞれ反応が違うのは、無意識の領域に存在している「何か」が個々別々だからです。
筆者の講義内容の中に、文明論(文明法則史学)や大和言葉(国学)があります。どちらも立派な師匠に付いて学んだものの、いつもおかしな質問をしてしまう私は、決して優秀な弟子ではありませんでした。
心はコロコロ動く。だからココロだという語源説があるくらい、「動かすまいと思っても動いてしまうのが心で」あり、コロコロ動くのは「何かに心がとらわれてしまうからで」す。
「無の境地」とは、何にも囚われることなく、ひたすら無心になっている状態のことです。でも、簡単にその境地に至れるわけではありません。沖導師は、そのために「心を動かさない練習を積むこと」が必要であるとし、そうした状態を「不動心、ニルビカルバ、サマージ」と呼びました。
「無の境地」という言葉があります。私欲による煩悩や、執着心による苦しみなどから解放された状態が「無の境地」であると言われています。何にも囚われず、ひたすら無心になってこそ、その境地に至ることになるのでしょうが、これがなかなか大変です。
さて、「道の奥」へ到達するには、一体どこで修行すればいいのでしょうか。勿論、何かの道場に入り、深山幽谷に籠もれば修行がし易いでしょう。ところが沖導師は、日々の生活や職業を、そのまま修行の場とすればいいと教えます。
一つの道で達人となれば、他の分野の奥義や極意に通じるということについて、沖導師はさらに次のように語ります。
「どの道の達人であれ、みな共通して、「吾の胸中何物もなく、求める心もない、ただ敬い、ただ受け、ただよろこび、ただ行い、ただまかせるのみ」という。ただ、ただの心、ただの生き方、これがヨガの極意である。
何事も、初心者としての取り組みは本当に大変です。分からない事や戸惑う事に苦労して不安だらけですが、その不慣れなときの体験や経験は、その後の人生にとって「一つの自信」や「大切な支え」となってまいります。
砂糖を食べたことがないため、「甘さ」というものを知らないという人に、どう説明したら甘さを分かってもらえるでしょうか。「砂糖は食べるととても美味しく、とろけるような心地良さがある。甘味(あまみ)とはそういうものなり」などと説明してみたところで、砂糖を食べたことのない人に「甘さ」の本質を理解させるのは極めて困難でしょう。それと同様に、武道や稽古事など諸芸・諸能において、そのコツや神髄を説明のみで理解してもらうことは不可能に近いと言えます(この砂糖の例えは、松下幸之助翁の話の中にありました)。
知(ち)と行(こう)の合一、すなわち知ることと行うことは一つであるという「知行合一」の思想(陽明学)を唱えたのは、中国明代の思想家・王陽明です。
知ったからには行う、行ってこそ知は完成するという行動哲学であり、我が国の志士たちにも大きな影響を与えました。沖導師は、そこにヨガの基本姿勢があると教えています。