其の七十一 どちらを選んだら損をし得をするかという、表面的な迷いから抜け出す!

商売は勿論のこと、宗教や政治などの分野においても、相手を信じ込ませることの巧みなカリスマ的指導者がいます。話を聞かせているうちに「確かにそうだ」と思い込ませ、多くの人々を顧客や信者、支援者に取り込んでしまうのですから時として注意が要ります。

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其の七十 一つの世界に長く身を置き、年を取るほど、自分から苦言を求めよう!

自己発見のためには沢山の苦労を重ねる必要があり、それには「苦言を呈してくれる者を求め」るのがいいとのことです。どの世界でもそうですが、先へ行き、年齢を重ねるほど、誰も注意してくれなくなります。誰だって人に意見するのは、決して気持ちのいいことではないからです。

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其の六十九 まねながらも、自分にあった「角度」を発見しよう!

修養と訓練は、打算を捨て、無心にぶつかって行くことが肝要ということですが、ただ闇雲にやってもダメとのことです。それは、試行錯誤して自分を生かせる場を探すなり、努力工夫して成長する仕組みを作るなりしなければ、結局上手くいかないからです。

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其の六十八 日常生活を稽古の場と心得て修練に励もう!

実戦の場は瞬間的変化の連続であるから、ゆっくり考える余地などどこにもありません。ひたすら無心に、自然体で取り組むしかないのです。無欲・無心になって余分な力を抜き、心身が統一された状態で対応出来るかどうかです。とりわけ激変期の指導者には、この瞬間的変化への対応力が必須となります。

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其の六十七 儲けてやろうと思ってやると、かえって損をする…

人をなぎ倒して自分は勝ち、人に損をさせて自分は得をし、人を蹴落として自分は偉くなるといった在り方では、結局本当の喜びや満足感は得られないということを述べました。そういう勝ち方や儲け方、出世の仕方の場合、勝ちたい・儲けたい・偉くなりたいという力みが強まる一方ですから、どこかに無理が生じます。沖導師は、そのことについて次のように教えました。

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其の六十六 自分だけ勝って、得して、偉くなる。それで何が残るのか?

本当の「自由」、それを自分のものにするには「自らに由(よ)る」ところの主体性が不可欠です。それと共に、何物にも囚われない自然体があれば、人として素直で自由な姿がもっと現れ出ることでしょう。

「ヨガでは、無願、無計、無跡の心構えでやれと教えている。それはこうしてやろうとか、ああしてやりたいとか思わないで、こうすべきが損だとか得だとかを考えないで、勝つためにやるとか認められたいためにやるとか、を思わない心でやることである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房69頁)

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其の六十五 まさに「強い意志」とは、原点からブレない意志のこと

ちょっとした事ですぐ嫌になる、飽き性でなかなか続かない。そういう性向は、(過去の失敗体験等の影響による)無意識の働きによって、意識(顕在意識や表層意識)が固定化されているからだと思われます。沖導師は、この無意識をきちんと支配するよう促します。

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其の六十四 体で考えるとはどういうことか?

頭で考えないで、体で考えよ。それは一体どういうことでしょうか?

「体で考えるということは、実践してみることであって、体には意識で支配できる部分とできない部分とがある。そうしてこの二つの部分が相互に影響しあって、人間の日常生活にあっては、この支配できない部分が、支配できる部分に対して大きな影響力をもっているのである。

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其の六十三 自分を動かしている無意識を、どうコントロールするか…

では、この自分を動かしている無意識を、どのようにコントロールすればいいのでしょうか。沖正弘導師の教えの続きをご紹介します。

「ここで課題となることは、この無意識をどのようにして支配すればよいかということである。

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其の六十二 人間関係において、距離が近付くとダメになるというタイプ…

何を選び、どう動き、いかに生きるかを決めるのは、実は無意識であるという教えの続きを述べていきましょう。

「こうしたことがわかることは、自己の思考と行動を支配しているものは、この内在して、せしめている働き、つまり無意識だということをさとることなのである。

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