心身が統一された状態で物事を行う。そうすれば、生命力は完全に生かされ、自由に働く。沖正弘導師は、そのように教えます。
「心身を統一して物事を行えば、生命力を完全かつ自由に働かせることができるから、その一挙手、一投足がそのまま健康法となり、悟道法となるのである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房83頁)
「生命力を完全かつ自由に働かせる」状態というのは、修練した事が日常生活に生かされている状況のことでしょう。何かの鍛錬や修行をしている時間だけ心身が統一しているというのではなく、普段の起居振る舞いにおいても、修練で身に付けた通り、呼吸が整い動作が落ち着いているかどうかです。
勿論、いきなり日常に生かすのは難しく、心身の統一を意識して行うのは、まず稽古や練習のときからです。最初の頃は動作がぎこちなく、至るところに余分な力が入ってしまうものですが、修練を積んでいくことで段々様になってきて日常生活にも反映されていきます。武道であれば生活即武道、茶道であれば生活即茶道となっていくわけです。
そもそも修行や稽古なんて、窮屈だから避けたいと思う人もいることでしょう。しかも練習中だけでなく、四六時中(しろくじちゅう、四掛ける六で二四時間)氣を張っていなければならず、姿勢も正していなければならないなんて、もう堅苦しいだけの世界に違いないと。でも、決してそうではありません。
無論、入門した初めの内は意識して行うのだから、窮屈と言えば窮屈でしょう。誰だっていきなり出来るわけがなく、動きも語りも全くちぐはぐです。その段階で恥じることなく続けていけば、いつの間にか無意識に動け、落ち着いて喋れるようになります。武道なら何らかの危険に対してサッと避けられたり、茶道なら目の前の相手にスッと必要な事をしてあげられたりするようになるのです。即ち、カムナカラに動けたり、自然に気付けたりするようになると。
そうなれば、「その一挙手、一投足がそのまま健康法となり、悟道法とな」ってまいります。心身が統一した状態で、重心が下がり、余分な力が抜け、偏ること無く調和が取れ、無理せず無駄(むだ)せず続けていけるようになります。氣が付けば、一つ一つの所作がそのまま健康法となり、悟りへの道にもなっているという次第です。(続く)