其の六十九 まねながらも、自分にあった「角度」を発見しよう!

修養と訓練は、打算を捨て、無心にぶつかって行くことが肝要ということですが、ただ闇雲にやってもダメとのことです。それは、試行錯誤して自分を生かせる場を探すなり、努力工夫して成長する仕組みを作るなりしなければ、結局上手くいかないからです。

「だが、ここで知らなければならないことは、ただ、ぶつかっていっても伸びないということである。なぜならば、各人はそれぞれ異った気質、体質をもっているのであるから、一番自分の力を生かすことのできる角度を、あらゆる立場から研究して、自分をよくつかんだうえ、自分の長所をのばし、短所はなおして立派なものにして行く、工夫をしなければならない。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房70頁~71頁)

こうして、各人それぞれに「異なった気質、体質」というものがあり、「一番自分の力を生かすことのできる角度」を見つけ、「長所をのばし、短所はなおして」いくようにと沖導師は教えます。

「自分の力を生かすことのできる角度」というのは、単なる自己流ではないはずです。基本を忘れた我流では困るが、修練の先に、こうなれば勝てるという「自分の形」を発見していかないようでは意味が無いということでしょう。

さらに沖導師は、次のように諭します。「よく他人のまねをする人がいるが、他人の持ち分は自分の持ち分ではないから、自分に生かすことはできない。まねは自分を発見するための手段でなければならない。この自己発見がまたむづかしいことであって、このためにはたくさんの苦労を重ねることが必要である。自ら進んで苦言を呈してくれる者を求めて苦しみの中にとびこんで行く、これが自己発見の道である。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房71頁)

他人の良いところを見習い、お手本として生かすことは必要です。でも、他人は他人、自分は自分です。まねながら、自分にあった「角度」を発見しなければなりません。

ところが、それを見つけるのは大変難しいことであり、いろいろな工夫と苦労を経て、やっと自分の流儀が確立されていくことになります。「苦言を呈してくれる者を求めて苦しみの中にとびこんで行く」くらいの積極性があって、はじめて自己発見も叶うというわけです。(続く)