商売は勿論のこと、宗教や政治などの分野においても、相手を信じ込ませることの巧みなカリスマ的指導者がいます。話を聞かせているうちに「確かにそうだ」と思い込ませ、多くの人々を顧客や信者、支援者に取り込んでしまうのですから時として注意が要ります。
そういう場合、その営業マンや活動家らは、必ずしも人を無理矢理誘導してしまう威圧的なタイプとは限りません。情熱的ではあるが自然体に近く、爽やかで好感が持てる人物であることのほうが多いと思います。
自分の志に絶対とも言える自信を持ち、迷いが少なく淡々と事を進めていますから、その人の周囲に心地良い安心感が醸し出されています。近くに接しておれば、いとも簡単にこちらの「心のガード」は破られ、場合によってはそのまま洗脳されてしまうことになるでしょう。
まあ、これは「無心の境地」としては、問題となりそうなケースの話なのですが、多くの人を惹き付けて止まない活動家であるからこそ、そのような肩の力の抜けた自然体を身に付けているものです。また、いろいろな分野の達人らは、この境地に到達することによって、常人では表せない力を発揮しております。
「無心の境地を求める者は、どのようなものにも、またどんな場合にも差引観念をもってあたってはいけない。宗教では対立心、差別心のことを迷いといっている。苦しんでいることは決して迷っていることではない。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房71頁)
「差引観念」というのは、どちらを選んだら損をし、または得をするかという損得の思考のことです。物事を損か得かで分け、相手を使えるか使えないかで判断するという差引観念も、生きて行く上で必要な思考です。でも、それだけだとどうしても二元対立的な差別心を起こすことになりかねず、その結果あれこれ迷うことにもなります。
無心の境地においては、稼いで認められたい、偉くなって誉められたいといった、表観的(表面的・表層的)な迷いを超えています。何のため誰のために生きるのかという原点に出発点(種)を置き、何によってどう生きるのかという志を立てています。
それによって、深いところどっしりと精神を構え、将来に希望を描きつつ、今出来る事を淡々と取り組んでいくという、無我・寡欲(小欲)の人生となります。それが武道やスポーツであれば、練習のときは調子いいのに、試合になるとガタガタになって駄目といったことが無くなります。(続く)