其の七十二 勝負になると、かたくなってしまって平素の力を出せなくなる…

舞踊や音楽などの世界で、これから本番を迎える人に対して師範やコーチが投げ掛けるアドバイスが、「練習と同じ気持ちでやりなさい」とか「普段通りにやればいい」といった言葉です。

そういう場合、その弟子や生徒は、もう十二分に稽古や練習を積んでいるものと思われます。あとは、落ち着いて実力を発揮すれば上手くいくはず。教える立場から見て、それがよく分かっているから、そのような助言になるのです。

しかし、その普段通りにやることが大変です。中には大事な本番や、重要な試合になるほど弱いという者がいます。そういう人は、一体何が足りないのでしょうか。

「よく練習の時には調子よくやっていたのに試合になると、てんで駄目になる人がいる。こういうことが起るのが差別心の影響である。なぜこの人は練習の時には好調子がでるのであろうか、それは勝敗にひっかかっていないからであって、体がほどけているからである。ところが勝負になると、この人は勝負にひっかかって恐怖してあがってしまい、かたくなってしまうから平素の力を出すことができなくなるのである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房71頁)

もちろん練習であっても、上手下手の点数が付けられたり、勝ち負けが判定されたりしていれば、やはり緊張します。でも、正式な試合ほどには緊張感は高まりません。場所もいつもの稽古場だから、楽な気分で取り組めます。従って、鍛錬はそのまま成果ということになります。

問題は、練習の試合や発表ならば強い(上手い)のに、本番の試合では上がってしまって駄目という場合です。そうなってしまう人のことを、「稽古場横綱」や「ブルペンエース」と呼ぶことがあります。強いのは稽古場だけ、見事な投球はブルペン(投球練習場)だけ、という揶揄(やゆ・皮肉めいた批判)です。

その根底にあるのが、勝って認められたい、巧くやって誉められたいといった感情や、勝たねばならない、負けたらどうしようといった、勝敗に囚われている心です。それが差別心であり、これがあると、いざ試合や本番になるほど心は乱れ、体は硬くなり、練習の時の半分の力も出せないまま負けてしまいます。

では、どうすれば普段と本番を差別しないで済むかというと、それには拘(こだわ)りの心、囚われの心、何かに引っ掛かってしまう心などを解き放つことが必要になります。

そして、考えてみれば「人生そのものが本番」なのですから、目的が無いままただ稼いで認められたい、志を持たぬまま単に偉くなって誉められたいといった、表面的な意識からどう離れるかが重要となります。(続く)