本番で普段通りの力を発揮するためには、何かに拘(こだわ)ったり、囚われたり、引っ掛かったりしてしまう心を解き放ってやらねばなりません。いかにして勝敗を決する本番のときに、普段の練習のときのような心のくつろぎと、体の緩やかさを保つかです。
しかし、単にくつろごうと思うだけではくつろげません。上がるまいと思ってみても上がってしまいます。沖導師は「くつろぎ、あがらないために必要なものは何かといえば、無心無体になる練習をすることである」と教えます。
「ヨガの立場からいうと勝負の時でも練習の時のようにくつろいで、体をほどいてやらなくてはならない。
だが、くつろごう、と思ってもくつろげるものではなく、あがるまいと思ってもあがらずにすむわけのものでもない。では、くつろぎ、あがらないために必要なものは何かといえば、無心無体になる練習をすることである。無体になるために必要なことは、摂生によって良い血をもち、よく訓練された神経と筋肉とをもち、コントロールできた呼吸をもつことなどである。
無心無体の境の把握者になろうとするには、ただひたすらに努力をしなければならない。とにかく、眠ても醒めてもただひたすらにやるのである。寝食を心にかけているようではひたすらなる努力者とはいえない。このひたすらなる努力、ひたすらなる工夫につとめると同時に、どれほど自己を信じているかどうかにかかっているのである。
スポーツを、無心無体になる練習の場とする時、それは道とわかるし、商売を損得をはなれて人生の修養の場とする時、それは道とわかるのである。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房71~72頁)
無心無体の「無心」は、心に拘りや囚われの無い様子です。「無体」は、体のどこにも余分な力の入っていない状態のことです。あらゆる道の練達者が、無心無体の境地の到達しております。(続く)