実戦の場は瞬間的変化の連続であるから、ゆっくり考える余地などどこにもありません。ひたすら無心に、自然体で取り組むしかないのです。無欲・無心になって余分な力を抜き、心身が統一された状態で対応出来るかどうかです。とりわけ激変期の指導者には、この瞬間的変化への対応力が必須となります。
「思考の余裕がないような瞬間の変化に対処して勝負の岐れ路をつくるものは一体何か。それは平素の鍛錬によって体につけさせておいた知慧である。つまり平素が現われてくるのである。ここに平素の生活のあり方の重要性があるのである。
平素の練習時の心構え、身構えがその場にのぞんで現われてくるわけであるから、何道何業にたずさわっているかにかかわりなく、心掛けなければならないのは修養と訓練であるということに気付くのである。とにかく何を、何のためにとかいう打算を捨てて、無心にぶつかって行くことが肝要である。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房70頁)
よく「体が勝手に動いた」などと言いますが、瞬間における巧みな動作というものは、いちいち頭で考えてから行われるものではありません。熱い物に触れたときサッと手を引くように、瞬間の動きとして起こされるのです。そういう反射神経のような領域まで高めるのが、稽古を重ねることの目的でしょう。「動ける人」というのは、まさにそういう修練を積んだ人のことです。
「岐れ路」すなわち勝負の分かれ道をつくるのが、その「平素の鍛錬」です。それによって体に付くのが、沖導師の言う「知慧」です。
「武道即生活」、これは武道の達人が異口同音に語る言葉です。稽古中だけが武道なのではなく、日常生活の起居動作全てが武道でなければならないという教えです。
「平素の鍛錬」の「平素」とは、まさに「生活」そのものにあります。日常生活自体を稽古の場と心得て修練を重ねたときに、瞬間的変化に対して的確に動ける自分が現れ出ることになるというわけです。
そして「修養と訓練」は、「何を、何のためにとかいう打算を捨てて、無心にぶつかって行くことが肝要」となります。注目されるために勝ちたい、自分だけ得をしたい、偉くなって誉められたい、などという私心で行うのではなく、「無心にぶつかって行くことが肝要」なのです。(続く)