「またわれと離れた神が救ってくれるとか、あるいは現実を離れた悟りがある(相対)かのように思うのは間違いであって自己陶冶以外に解決法がない」という沖導師の言葉の意味を、まだ解説していませんでした。
先述の通り沖ヨガの教えの根本は「生命即身」にあり、イノチの働きは「神」と呼ぶべき素晴らしい活動となって現れます。生命はそのまま神(生命即身)であり、生命体である私たち一人一人は「神の子」であると同時に「神」そのものなのです。
そして、あらゆる存在が大宇宙の根源(宇宙生命)とつながっており、存在同士も互いに関係し合っています。一切が活動しつつ融合一体となっているのが、この世界の真実の姿というわけです。
そうであれば、大宇宙は自分の中に入っているし、自分は大宇宙に広がっていることになります。これを、古代インド哲学(ウパニシャッド哲学)では「梵我一如」といいます。「梵」は宇宙の真理、「我」は自己の本体で、両者は一如となっています。この自覚を悟りといい、悟りに至れば大宇宙の力に通じることによって、自己の天分を自由自在に生かすことが可能となります。
ところが、人間は弱いですから、自己の神性(内在智)を忘れて、何か別個の神(特別な力)に頼りたくなります。いわゆる「困ったときの神頼み」がそれであり、自分は何もしなくとも遠くの離れた神が救ってくれるだろうとか、現実に努力なんてしなくても、何か見えない力によって悟りに至れるだろうなどと期待してしまいます。
それが、いわゆる悪い意味(間違った意味)の「他力本願」です。そのように空想するのは間違いであって、自己陶冶つまり自分を鍛え磨く以外に解決方法は無いとするところに、沖ヨガの基本理念があるという次第です。(続く)