「無の境地」という言葉があります。私欲による煩悩や、執着心による苦しみなどから解放された状態が「無の境地」であると言われています。何にも囚われず、ひたすら無心になってこそ、その境地に至ることになるのでしょうが、これがなかなか大変です。
「無の境地でやろうと考えたら、もう無の境地ではなくなる。無の境地でやるということは、何も考えず、ただやることである。
だが、この何も考えないということは、むづかしい至難行中の至難行であるといえるであろう。このただやる境地を把握することを修行というのである。
このために必要なことは、心を動かさない練習を積むこと(不動心、ニルビカルバ、サマージ)であるが、動かすまいと思っても動いてしまうのが心である。それは何かに心がとらわれてしまうからである。心を動かすものは何か、胸中を去来する利害損得、好き嫌い、成るか成らぬかという対立する観念が心を動かすのである。例えば、ここでやれば勝てるとか、売れるとか、ここがチャンスだとか、だめらしいとか、ここでやれば認められるとか、ここで失敗すれば駄目になってしまうとか、叱られたら困るとか、ありとあらゆる対立観念が無意識のうちに去来している。そしてこの去来しているもののうち最も強力なものにひっかかってしまうわけである。このひっかかったものに応じたはからいが生じ、このはからいに自己が支配されて、今度はこのはからいに応じた手をつかいはじめるわけである。そうして、このはからいが間違っていると次から次ぎへと誤まりをおかす悪循環をくりかえすのである。
こうしてみると、自己を支配する本体、自己を害する本体は自己の中にあるということを知るのである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房66頁)
無の境地でやろうと思った瞬間、その心が計らいを生んでしまって、「もう無の境地ではなくな」ります。「無の境地でやるということは、何も考えず、ただやること」なのですが、これが「至難行中の至難行であ」って全く簡単ではありません。でも、「このただやる境地を把握する」ところに修行があるとのことです。(続く)