其の五十五 信念に基づいて生きていけば、本当の満足感が湧き起こってくる!

一つの道で達人となれば、他の分野の奥義や極意に通じるということについて、沖導師はさらに次のように語ります。

「どの道の達人であれ、みな共通して、「吾の胸中何物もなく、求める心もない、ただ敬い、ただ受け、ただよろこび、ただ行い、ただまかせるのみ」という。ただ、ただの心、ただの生き方、これがヨガの極意である。

この『何か』をつかまえた者同志(※志ママ)は、語らずとも通じるものをもっている。これが真の一如の世界、和合の世界である。この世界では性別も老若も言語の相違もなんらの障りとはならない。

この真の和合に達するところに、人間と生まれた者同志としての喜びがあるのである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房65頁)

どの分野であれ、達人になるほど心の中に清澄さ生じてきて、拘り(こだわり)や囚われ(とらわれ)といった感情が薄くなっていきます。ああして欲しいという欲求や、こうしたいといった作為も段々消えていき、ひたすら対象を敬い、ご縁を受け入れては感謝出来るようになります。そうして、求道の信念を養い、与えられた役割を無心に実行し、ひたすら流れに身を任せ、ひたすら一心に生きていくというところにヨガの極意があるとのことです。

「自分が進む道」に対する信念があり、それに基づいて生きていくならば、その生き方自体に喜びがありますから、本当の満足感が湧き起こってきます。やがて私中心の欲心が鎮まり、人から誉められたいとか、認められたいといった感情が希薄化します。ただただ信念に則った生き方が出来るというだけで、嬉しさや喜びを味わえるようになっていくわけです。

とにかく、今出来る事を淡々と実行し、「そのときはそのとき」という無執着の精神によって、どうでもいい結果に左右されず、ブレないで一心に生きていくことが肝要です。そこにヨガの極意があるというのですから。

そして、理論や技術を超えた『何か』をつかまえた者同士であれば、語らずとも通じ合えようになります。経営者同士なら、トップに立つ者の生き甲斐を共有するとともに、最終責任者としての重圧感や孤独感を分かり合えるようなものです。

そこに、「道の奥」に至った者同士で自他が一体となる「真の一如の世界」があり、その和合の世界では、表面的な差異は何ら障りになりません。お互いこの真の和合世界に向かって、人間として生まれた者同志による真の喜びを味わおうではありませんか!(続く)