沖導師による「奥義」の解説の続きです。この奥義の話こそ、本連載において、沖導師の教えを通して皆さんに伝えたかった核心です。
「それでは、この理外の理をつかまえるにはどうしたらよいかというと、つかまえようと思ってもつかまえられるものではないのである。ただひたすらに行じてみる以外に道はない。だが、ただ行じるだけではいけない。なぜならば、それでは盲動に終わるからである。眼を閉じて歩けばころぶだけである。眼をあけてひたすら歩くうちに、いつの間にか到達してしまったところ、そこが奥義なのである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房63頁)
沖導師の言う「理外の理」は、言葉や文字で表すことの出来ない理(ことわり)であり、普通の常識では説明不能な道理です。それは、行と体験によらなければ掴むことの出来ない、密教の教えそのものです。
しかし、行は闇雲にやればいいものではなく、師や先輩から教えをよく受け、修行の本軸から外れぬよう進めていかないと、たちまち転んでしまいます。本軸から外れないよう慎重に歩んでいってこそ、必ず奥義に到達するのです。
では、眼を開けて歩いて行くにはどうすればいいかというと、「それは、どうすべきかを考え、これでいいのかと工夫し、人の教えをよくきいてゆく、つまり知と行を合一させること」が必要となります(同63頁)。要するに、考え方を練る、やり方を工夫する、智恵を働かせる、師や先輩、仲間から意見してもらい、それを素直に聞く。そうしたところに悟りへの道があるというわけです。
どれほど才能があっても、我流でやり、しかもたまにしかやらないという程度では、大抵早い段階で行き詰まります。反対に才能が乏しい人あっても、基本を守って毎日努力を重ねていくうちに段々成長し、やがてその道の一流となっていくものです。(続く)