其の五十六 生活を修行の場とし、職業を通じて極意を掴む!

さて、「道の奥」へ到達するには、一体どこで修行すればいいのでしょうか。勿論、何かの道場に入り、深山幽谷に籠もれば修行がし易いでしょう。ところが沖導師は、日々の生活や職業を、そのまま修行の場とすればいいと教えます。

「真実はどの生活にいてもつかめるものである。そのために必要なことは自分の生活を修行の場とすればよいのである。自分の職業を通じて、ただ行じ、その奥の奥の『何か』を体験して行けばよいのである。このことを自覚する時には、職業の種別や上下も、対象の好き嫌いも問題ではなく、すべてが自分の修行に必要な対象として価値をもってくる。これがすべてのものが生きる世界で、生きていることが嬉しくてしかたがない世界、たずさわっているなりわい(業)がありがたくてしかたがない世界で──光風晴日の法悦(サマージ)境である。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房65頁)

日常の生活が辛く、仕事も嫌でたまらない。このままではストレスが溜まる一方なので、息抜きのための趣味の稽古や、運動のジムに通うということも必要なことに違いありません。

しかし、出来れば日々の生活を修行の場とし、その中で真実を掴み、自分を磨いていきたいものです。職業そのものを修行と心得、仕事を行ずることで「奥の奥の何か」を体験し、達人の極意や超人の境地に向かうことが出来るなら、何と充実した人生となることでしょうか。

そうなれば、職業の種類や貴賤(上下)は関係なくなり、仕事に対する好み(好き嫌い)も問題ではなくなるとのことです。一切が自分の進化向上に必要なものとして生かされていくからです。

そして、自分の回りは、すべてが生かされる世界となり、生きていること自体が歓喜となり、生業(なりわい)としていただいている仕事が有り難くて仕方のない世界に入っていくことになります。それは、太陽の光りが輝き、風がさわやかな晴れの日に、自然と自分が喜びで一つになっていることを感じるときのような境地なのです。

現実には、生活や仕事で常にそういう境地に居るのは大変難しいことです。生活や仕事は難行苦行の連続であり、それとは違うところに救いを求めてしまうのが我々の日常です。

とはいえ、人生で最も多くの時間を費やすのが生活や仕事の場です。そこを何ら自己成長に生かせないようでは、あまりにも人生が勿体ないです。

そこで、生活を共にする良き相手を選んだり、もっと天分や素質を生かせる仕事や活動を選択したりするということは、これから先の人生にとって、とても大切なことでしょう。このままひたすら我慢せよ、ということではなく、前向きに生活や仕事の場を切り替えたり、整えたりしていくということを含めた上での、沖導師の法悦の教えであろうと推測いたします。(続く)