其の五十一 仕事であれ何事であれ、究めた者だけが到達する境地がある…

徒弟制度が生きていた昔、仕事は見習い小僧の丁稚奉公(でっちぼうこう)から始まり、やっと一人前になるまでに時間が掛かりました。仕事自体が「修養としての一つの道」になっていて、仕事場は人生の道場でもあったのです。

それが近代化によって、大量生産・大量消費を基本とする物欲拡大の経済活動に転換していくと、同じものを沢山製造したり提供したりするために、仕事は共有システム化されていきます。今日入社した社員が、本日から売上げに貢献出来る仕組みが起こされ、仕事の標準化が多くの業種に広がっていったのです。

それによって玄人や職人といった熟練者が減り、仕事で奥義を究めるなどという昔気質の在り方が消えていきました。仕事に誇りを持つことが次第に困難となり、替わりはいくらでもいるという状況の中、没個性的な人材ばかりが世を覆うようになってしまったのです。

仕事であれ何事であれ、究めた者だけが到達する境地があります。それを奥義といい、奥義について沖正弘先生は次のように述べています。

「奥義は語ろうとして語れるものではない。また考えてわかるものでもなければ、説明されて把握できるものでもない。書きあらわすことのできない理外の理なのである。この理外の理をつかまえることが悟りであり、奥義に達することである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房63頁)

奥義とは、芸能や武芸における「奥深いところにある極意」のことです。奥義の「義」には「筋を通す」という意味がありますから、ある道を一筋に進んで行ったときに到達する境地が奥義ということになります。

しかし、それは体験や経験を経ることで把握されていくものですから、なかなか語ろうとしても語れず、頭で考えてもみても分からず、言葉で説明したところで、すぐに把握出来るものではありません。文字で書き表すことの出来ない「理外の理」、すなわち普通の常識では説明不能な道理であり、まさに密教なのです。(続く)