其の十六  安泰に生きられる立場、出世が約束される世界を離れ、やがて自分の流儀へ

何であれ、已むに已まれぬ思いから新しい分野を開拓したり創造したりする人は、どこかで“既存の価値”を捨てています。安泰に生きられる立場、出世が約束される世界などを捨て、納得のいく境地を求めたのです。そして、世間の冷視と孤独に耐えつつ、苦労辛酸を嘗めながら自分の流儀というものを創っていきました。

そういう生き方は、特別な人たちだけが選ぶ道なのかというと決してそうではありません。創造者ばかりでなく庶民の人生においても、何かを捨てねばならない場面がやって来ることがあります。そのとき、誰だって迷いと悩みに襲われます。そういう我々のために、兼好法師は第一義(一番大切な事)を重視することの大切さを説きました。

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其の十五 一番大事なことを選んで、他は捨てよ!

一回限りの人生なのですから、迷ったときは自分にしか出来ないほう、後悔しないほう、命を懸けて惜しくないほうを選ぶべきです。

そのためには、自分にとって人生最高の目的は何なのかについて、普段から自問自答しておかねばなりません。そこがしっかりしていないと、いろいろな雑事や細事に関わっているうちに、一生があっという間に終わってしまいます。

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其の十四 原理、コツ、そして経験~熟達した名人への道

何事にも先達が必要であると述べたのが第五十二段でしたが、これと似た意味の内容が第五十一段にも出ています。その道の専門家でなければ、やはり上手くいかないという話です。

京都のある池に川の水を引き入れようとして、近隣の住民たちに命じて水車を造らせてみました。多くの費用を与え、数日を要して出来上がったので掛けてみたところ、少しも回りません。あれこれ手を入れてみるものの結局回らず、水車は空しく立っているだけでした。

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其の十三 本来の目的を果たすことなく終わってしまうのは残念…

京都市右京区に、仁和寺という真言宗御室派総本山の名刹があります。その「仁和寺にいるある法師が、年寄りとなるまで石清水八幡宮を参拝していなかった」と。石清水八幡宮は京都府八幡市にある有名な神社で、これを拝んでいないということは大変残念なことであると思い、「ある時思い立って、ただ一人歩いて詣で」ました。

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其の十二 先導役がいないと、間違った方向へ向かってしまう

初めての場所を訪問したとき、現地に詳しい案内役が必要になります。しっかりした先導役がいないと、要所を訪ねないまま帰ってしまうかも知れません。

何かの道に進む場合も同様で、先導役がいないと間違った方向へ向かう恐れがあります。自己流のままレベルの低い状態で終わってしまう根本原因は、的確なアドバイスをくれる指導者が存在しないところにあるのです。

そういう事態に陥らないよう、兼好法師は「先達(せんだつ)」の必要性を説きました。

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其の十一 疑っていても大丈夫、唱える言葉の力によって必ず上手くいく!

どんな稽古や修行にも、途中で飽きたり、負担ばかり感じて辛くなったり、続けていて意味があるのだろうかと疑いの心が生じたりします。法然上人の信者の中にも、そういう人たちが現れました。

ある弟子が、率直に質問します。「念仏のとき、眠気におそわれて修行を怠ってしまうことがあるのですが、どうしたらこの妨げを除けますでしょうか」。すると法然上人は、「目が覚めたときに念仏しなさい」とあっさりお答えになりました。

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其の十 稽古や修行に飽きてくる、辛くなる、疑いが生ずる…

親しい仲だからこそ礼儀を尊ぶということの大切さは、今日の武道稽古にも見られます。道場に入退室する際に礼をし、稽古の最初と最後に列を整えて正坐し、神棚、師範、お互いの順で礼をします。いつも顔を合わせている仲間同士だからこそ、きちんと礼を交わすのです。そうすることによって、心を静めて集中させ、怪我の無い真剣な稽古が出来るわけです。

さて、どんな稽古や修行にも、途中で飽きたり、負担ばかり感じて辛くなったり、はたまた「こんな事を続けていて本当に意味があるのだろうか」と疑いの心が生じたりするものです。

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其の九 必要なタイミングで、すっと間合いを詰めていけるかどうか…

筆者が若い頃、東京で出会った知人の実家にお邪魔させていただいたところ、母子の会話がとても丁寧で、世の中にはこういう母親と息子の関係もあるのだと驚いたことがありました。敬語が基本の言葉遣いと、相手を気遣う物腰が、実にきちんとしていたのです。

浜松の下町育ちで方言丸出しの自分には、何だか似合わないところに来てしまったなという居心地の悪さがありました。しかし、親しい仲だからこそ礼を尊び、所作を懇ろに保つというのは、なかなか格好いいものだなと感じたのも確かです。

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其の八 人間関係の間合いを、どう取れば良いのか…

徒然草を読んでいると、「それそれ、そういう事ってあるよね」とか、「そうそう、それを自分も言いたかった」などと、しみじみ感じさせてくれる場面に出会います。読者にそう感じさせる理由は、やはり兼好法師が持つ鋭い人間観察眼にあります。

その観察眼は、人間関係の間合いにも及びました。私たちは人との関わり合いの中で暮らしているのですが、距離が近すぎたら五月蠅(うるさ)く思われ(思い)、遠すぎたら冷たく感じられて(感じて)しまうのですから、程良い距離の取り方くらい難しいものはありません。

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其の七 客が去って、すぐさまドアロックを掛けるようでは不粋極まる

人との交流において、お迎えの恭(うやうや)しさは勿論大事ですが、お見送りの丁寧さも忘れてはなりません。出会う時よりも、別れ際の態度にこそ人格が現れるわけで、そこにわざとらしくない自然な残心を込められるかどうかです。

現代においても、きちんと残心の籠もった見送りの出来る人がおります。お客様が次の角を曲がるか、通り過ぎるところまで見送ることを礼儀とするなど、ちゃんとしたお店ほど残心が出来ているものです。客としても、店の人の残心を背中に感じますから、今一度振り返ってお辞儀をすることになります。

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