矢を射る弓道では、二本の矢を一組と考えます。初めに射る一本目を「甲矢(はや)」、後に射る二本目を「乙矢(おとや)」と言い、その一対を「一手(ひとて)」と呼びます。
甲矢を射る際、乙矢も同じ手に持ち、続けて射ることが出来るよう修練するわけですが、それはある程度上手くなってからやるべきことであって、「初心の人」は二つの矢を手に持ってはいけないという注意が師匠から促されました。
矢を射る弓道では、二本の矢を一組と考えます。初めに射る一本目を「甲矢(はや)」、後に射る二本目を「乙矢(おとや)」と言い、その一対を「一手(ひとて)」と呼びます。
甲矢を射る際、乙矢も同じ手に持ち、続けて射ることが出来るよう修練するわけですが、それはある程度上手くなってからやるべきことであって、「初心の人」は二つの矢を手に持ってはいけないという注意が師匠から促されました。
一発で当てよ!一撃で倒せ!などという、集中力の重視を促す教えがあります。一方で「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」という考え方もありますが、修練として行うからには一本で決めなければ自己成長に繋がりません。
自分は素直でないので、社会に対してあれこれ疑ってばかりいる。そのためか、自己成長のために頑張ろうという気は、はっきり言って起きない。世の中の役に立つよう、何かに励もうという意欲も湧かない。
当然のこと、大した成長は見られず、注目されるような活躍も無い。しかし、他人が成功を遂げて輝き出すと、どうしても羨(うらや)んでしまう。兼好法師は、そういう感情が生じるのが人の性(さが)だと言いました。
素直という言葉があり、その振り仮名は「すなほ」です。素直の「す」は直(す)ぐ・進む・鋭いなどのスで先鋭・突出を、「な」は和む・鞣(なめ)す・滑(なめ)らかなどのナで調和を、「ほ」は稲穂(いなほ)・炎(ほむら)・誉めるなどのホで秀でた様子を表します。
人間には、嫉妬心という厄介な感情があります。成功して名声を獲得した人が出ると、必ずと言っていいほど嫉妬の渦が生じます。有名人に対するジェラシーは無論のこと、同級生や友人など、近い関係にある人が立派に生きているという場合にも、我々は嫉妬心をめらめらと燃やしてしまいます。
講師をしていて嬉しいのは、弟子の成長を見られるときです。見識が深まったな、ものの見方が偏らなくなったな、怒りの感情だけで発言しなくなったな、周囲を惹き付ける人間力が養われてきたな、などというときに喜びを感じます。成長する受講生は、目が輝き出し、表情が明るくなり、どんどん動きが良くなります。
横臥したまま、じっとしている龍のことを臥龍(がりょう、またはがりゅう)と言います。臥龍とは、卓越した資質才能を持ちながら、自分を必要とする人物に出会うまでは決して動こうとしない龍のことです。チャイナの歴史では、焦ることなく英傑の誘いを待っていた諸葛亮孔明を指しています。臥龍であった孔明は、劉備玄徳の「三顧の礼」によって世に出ることになりました。
熱心に流行を追い掛け、それをいち早く知ったり手に入れたりすることに血眼(ちまなこ)となり、人に見せびらかしては、これ見よがしに「どうだ」とばかり自慢する輩(やから)がいます。「当世風のいろいろな珍しい事を言い広め」ることに熱心で、聞いている者たちが驚くことで得意気になる人のことです。
会話の内容は、仲間内で通じる話題ばかり。話に付いて来られない人は仲間外れ。そういうイジメがあります。
会話に入れない人は大変辛い思いをし、「ここに私の居場所は無いなあ」と辛がり、「私の来る場所では無かった」と悲しむことになります。
デマについて、徒然草の第五十段に面白い話が出ています。兼好法師が若い頃、伊勢の国から鬼になった女が京に上って来て、二十日間ほど大騒動になったのだそうです。
昨日は西園寺に、今日は院(上皇の御所)にという具合に、京のどこそこに鬼が出たという情報が各地に発生しました。しかし、確かに見たという人は無く、全くの虚言(そらごと)だという人もいません。身分の上下に関わらず、みな鬼のことばかり話題にする状況となりました。