第五十九段の続きです。人生の第一義を選択すべきかどうかで迷ってしまう我々に、では火事のときでも動かずにいられるのか、臨終で命が終わろうとするときでも、いろいろな俗事への執着を断たないでいられるのかと迫ります。
《徒然草:第五十九段》其の弐
「近所に火事などが起きて逃げる人が、ちょっと待って欲しいと言うだろうか。我が身を助けようとすれば、恥をも顧みず、財産も捨てて逃れ去るに決まっていよう。
命が人を待ってくれようか。死のやって来ることは、水火が攻めて来るよりも速く、決して逃れられるものではない。
(自分が死ぬ)その時、年老いた親や幼い子がいるとか、君の恩や人の情けを受けているとか言って、それらのものは捨てられないと考えたところで、(もう自分は死ぬのだから)結局捨てないではいられまい。」
※原文のキーワード
近所に火事…「近き火」、ちょっと待って欲しい…「しばし」、死…「無常」、幼い子…「いときなき子」
この第五十九段・其の弐の文を、さらに分かり易く訳してみます。
すぐ近くに起きた火事で逃げる人が、「火事はもう少し後にして欲しい」などと言うでしょうか。何としても命だけは助かろうとし、慌てて逃げたら恥ずかしいなどと思う余裕は全然無いはずです。家にある財産なんて放っておいたまま、一心に避難するのが当たり前の行動でしょう。命あっても物種(ものだね)だからです。
人には必ず寿命というものがあり、死に神に待ってくれと叫んだところで、命が人を待ってくれるわけではありません。迫り来る死というものは、水や火が攻めて来るよりも速く、とても逃れられるものではないのです。
いよいよ死を迎えるとき、自分には年老いた親や幼い子がおり、それらを残したまま死ねないとか、君の恩や人の情けを受けたまま、何のお返しも出来ずにこの世を去れないと嘆いたところでどうにもなりません。死んでしまえば、結局全て捨て去るしかないのです。
この兼好法師の死生観は、些(いささ)か極端な考え方のようにも感じられます。が、最も大事な選択をすべきときは、これくらいの意識でもって進む方向を決していかないと、結局ずるずる俗事に執着したまま一生を終えてしまう可能性が大きいでしょう。
決断とは何かを捨てることであるとするならば、捨てることを躊躇させているしがらみを思い切って取り去る以外に、真の決断はあり得ないということになります。決断を遠慮していては何も起こせないと。(続く)