続いて、兼好法師が説く「嘘の種類」の続きです。
第三は「本当らしく」聞こえるものの、その「所々をややぼかし」てあり、「よく知らないふりをしながら、話の辻褄(つじつま)を合わせて」いる嘘です。全てを鮮明に言おうとすれば、元々嘘なのですから粉飾だらけとなって、虚言であることがばれてしまいます。そこで巧みな嘘つきは、所々をぼかしつつ辻褄を合わせることで、嘘にストーリーを作っていきます。
続いて、兼好法師が説く「嘘の種類」の続きです。
第三は「本当らしく」聞こえるものの、その「所々をややぼかし」てあり、「よく知らないふりをしながら、話の辻褄(つじつま)を合わせて」いる嘘です。全てを鮮明に言おうとすれば、元々嘘なのですから粉飾だらけとなって、虚言であることがばれてしまいます。そこで巧みな嘘つきは、所々をぼかしつつ辻褄を合わせることで、嘘にストーリーを作っていきます。
続いて、嘘にもいろいろな種類があるということを兼好法師が指摘します。
《徒然草:第七十三段》其の二
「(本当らしく話す)そばから嘘がばれることをも構わず、口から出任せに言い散らすのは、直ちに根拠の無い話であることが分かる。
また、自分でも本当らしくないと思いながら、他人が話した(内容を)そのままに、鼻のあたりをぴくぴく動かしながら言うのは、その人自身の虚言ではない。
本当らしく、所々をややぼかし、よく知らないふりをしながら、話の辻褄(つじつま)を合わせて語る虚言は(騙されやすいから)恐ろしいことである。
虚言(そらごと)と言えば、兼好法師は死後になってから出自を改竄(かいざん)されてしまいます。長年『徒然草』の作者は「吉田兼好」とされてきましたし、筆者もそのように学びましたが、実はこれが虚構であったということを先に述べました。
全国の神道界に勢力を築いた吉田神道家(吉田兼倶)が、有名人であった兼好法師(卜部兼好)を詐計によって吉田家一門に組み込んだため、後の人々はそれを鵜呑みに信じ込まされたのです。虚偽に注意せよと説いていた兼好法師が、死後になって嘘を言われてしまうのだから皮肉なものです。
通信手段や情報システムの発達した今日でも、真実を知るということは本当に大変です。どこかでデマが生じて嘘が蔓延し、それが声高であればあるほど多くの人たちが信じてしまいます。その一方で、いやそれはマスコミが仕掛けた謀略だとか、ネットを使った巧妙な陰謀論に違いない、などと反発する一群が現れて来ます。
第五十九段の続きです。人生の第一義を選択すべきかどうかで迷ってしまう我々に、では火事のときでも動かずにいられるのか、臨終で命が終わろうとするときでも、いろいろな俗事への執着を断たないでいられるのかと迫ります。
何であれ、已むに已まれぬ思いから新しい分野を開拓したり創造したりする人は、どこかで“既存の価値”を捨てています。安泰に生きられる立場、出世が約束される世界などを捨て、納得のいく境地を求めたのです。そして、世間の冷視と孤独に耐えつつ、苦労辛酸を嘗めながら自分の流儀というものを創っていきました。
そういう生き方は、特別な人たちだけが選ぶ道なのかというと決してそうではありません。創造者ばかりでなく庶民の人生においても、何かを捨てねばならない場面がやって来ることがあります。そのとき、誰だって迷いと悩みに襲われます。そういう我々のために、兼好法師は第一義(一番大切な事)を重視することの大切さを説きました。
一回限りの人生なのですから、迷ったときは自分にしか出来ないほう、後悔しないほう、命を懸けて惜しくないほうを選ぶべきです。
そのためには、自分にとって人生最高の目的は何なのかについて、普段から自問自答しておかねばなりません。そこがしっかりしていないと、いろいろな雑事や細事に関わっているうちに、一生があっという間に終わってしまいます。
何事にも先達が必要であると述べたのが第五十二段でしたが、これと似た意味の内容が第五十一段にも出ています。その道の専門家でなければ、やはり上手くいかないという話です。
京都のある池に川の水を引き入れようとして、近隣の住民たちに命じて水車を造らせてみました。多くの費用を与え、数日を要して出来上がったので掛けてみたところ、少しも回りません。あれこれ手を入れてみるものの結局回らず、水車は空しく立っているだけでした。
京都市右京区に、仁和寺という真言宗御室派総本山の名刹があります。その「仁和寺にいるある法師が、年寄りとなるまで石清水八幡宮を参拝していなかった」と。石清水八幡宮は京都府八幡市にある有名な神社で、これを拝んでいないということは大変残念なことであると思い、「ある時思い立って、ただ一人歩いて詣で」ました。
初めての場所を訪問したとき、現地に詳しい案内役が必要になります。しっかりした先導役がいないと、要所を訪ねないまま帰ってしまうかも知れません。
何かの道に進む場合も同様で、先導役がいないと間違った方向へ向かう恐れがあります。自己流のままレベルの低い状態で終わってしまう根本原因は、的確なアドバイスをくれる指導者が存在しないところにあるのです。
そういう事態に陥らないよう、兼好法師は「先達(せんだつ)」の必要性を説きました。