其の三十三 一矢に集中せよ!習い始めの意識の置き所が肝腎

矢を射る弓道では、二本の矢を一組と考えます。初めに射る一本目を「甲矢(はや)」、後に射る二本目を「乙矢(おとや)」と言い、その一対を「一手(ひとて)」と呼びます。

甲矢を射る際、乙矢も同じ手に持ち、続けて射ることが出来るよう修練するわけですが、それはある程度上手くなってからやるべきことであって、「初心の人」は二つの矢を手に持ってはいけないという注意が師匠から促されました。

初心者は、的に当てたいというゲーム感覚の意識が強くなり過ぎて、体幹の中心軸を定めることや、集中力を高めることが後回しにされがちです。そうして、二本を手にしていれば、まだもう一本あるということから乙矢を頼みにし、一本目の甲矢をいい加減に射てしまうことになるのです。

習い始めの意識の置き所というものが肝腎で、最初に手抜きを覚えてしまうと、ずっとその癖が抜けないまま進歩が足踏みしてしまいます。そのことを、師匠は弟子の育成で嫌というほど体験していたのでしょう。「外れたら次は当てようなどと考えることなく、この一矢で決めようと」という集中力が、初心者にこそ極めて重要というわけです。

矢は沢山ではなく、わずか二本です。そして、師匠は目の前にいます。その状況下で、「一本の矢をいい加減に射ようなどと思うわけがない」はずです。でも「緩みの心というものは、自分では気付かなくても師匠は見抜いているものだ」と兼好法師は指摘しました。

修練や鍛錬の世界では、レベルの上の人が下の人を見た場合、その進み具合が大変よく分かります。師匠が初心者を見たのであれば、尚のこと明瞭に察知されます。

師匠の目は恐いものです。筆者の武道稽古の体験ですが、「あっ、失敗したな」などと思ったときに、必ず師匠がこちらを見ているのです。自分がそう思っただけかもしれませんが、それが頻繁に起こるのですから、やはり師匠は弟子をよく見ているに違いありません。

とにかく、球技なら一球を疎かにしない、挨拶なら一礼に手を抜かない、話なら一言に集中するといったことが大切な心得になります。「この戒めは、万事に共通していよう」と、兼好法師は力を込めて述べました。(続く)