人間には、嫉妬心という厄介な感情があります。成功して名声を獲得した人が出ると、必ずと言っていいほど嫉妬の渦が生じます。有名人に対するジェラシーは無論のこと、同級生や友人など、近い関係にある人が立派に生きているという場合にも、我々は嫉妬心をめらめらと燃やしてしまいます。
そして、あの人の立派な言動は見せかけであり、本当は私利私欲が発端に過ぎないなどと非難し、こき下ろすことで溜飲を下げようとします。そういうタイプの人は、自分の醜(みにく)い心の通り、他人も卑しいに違いないと思っているのでしょう。
清く正しい精神なんて、この世にあるはずが無い。もしも正直で親切そうに見える場合は、そう見られるための偽りか、さもなければ何らかの下心があるに決まっている、などと考えてしまうのです。
活躍している人の悪口を言っては、相手を自分のレベルまで落とす。そうして、無理矢理にでも丈(たけ)を並べてしまわないと、心が落ち着かないというわけです。兼好法師は、そういう人を「下愚」と呼び、その性格は変わり難いと嘆きました。
《徒然草:第八十五段》
「人の心は素直でないから、偽りが無いというのでもない。しかし、自然と正直な人が、どうしていないことがあろうか。
自分は素直でないけれども、他人の賢さを見て羨(うらや)むのは世の常である。この上なく愚かな人は、たまに(目の前に現れる正直で)賢い人を見ると憎く思う。
そして「大きな利益を得ようとして小さな利益を受け取らず、自分を偽り飾り立て名声を上げようとしているだけだ」などと誹(そし)っている。そういう人は、自分の考えと違っているために、そういう嘲(あざけ)りをしているのであって次のことが分かる。
この人は、下愚の性質が(賢に)移ることは不可能だ。嘘にも小利を辞すことは出来ず、仮であっても賢者を真似(まね)られない。
狂人の真似だといって大道路を(狂ったように)走れば、そのまま狂人だ。悪人の真似だといって、人を殺せば悪人だ。(一日に千里を走るという)駿馬を見習う馬は駿馬と同類であり、(伝説上の聖王である)舜に学ぶ者は舜の仲間である。たとえ偽りであっても賢者に学ぼうという人をこそ、賢者と呼ぶべきである。」
※原文のキーワード
自然と…「おのづから」、どうしていないことがあろうか…「などかなからん」、世の常…「尋常(よのつね)」、この上なく…「至りて」、たまに…「たまたま」、考えと違う…「心にたがへる」、次のことが分かる…「知りぬ」、嘘にも…「偽りて」、真似られない…「学ぶべからず」、大道路…「大路」、そのまま…「則ち」、駿馬…「驥」、同類…「たぐひ」、仲間…「徒(ともがら)」(続く)