其の三十一 もし悔しければ、その想いの力を自己成長に振り向けよう!

自分は素直でないので、社会に対してあれこれ疑ってばかりいる。そのためか、自己成長のために頑張ろうという気は、はっきり言って起きない。世の中の役に立つよう、何かに励もうという意欲も湧かない。

当然のこと、大した成長は見られず、注目されるような活躍も無い。しかし、他人が成功を遂げて輝き出すと、どうしても羨(うらや)んでしまう。兼好法師は、そういう感情が生じるのが人の性(さが)だと言いました。

その羨望感が強まると、一体どうなるでしょうか。自分の目の前に現れた者の性格が素直で爽やか、しかも言動が正しくて格好いい。その上、着実に成果を出していく。そういう真に賢い人を見たとき、沸き起こる嫉妬心を抑えられなくなって、とうとう相手を「憎く思う」ことになります。やがて、その憎悪の感情を、批判と悪口に向かわせてしまうのです。

悔しいなら、その想いを自己成長に振り向ければいいだけのことですが、結局自分はその低レベルの位置にあぐらをかいたまま、輝かしい活躍をしている相手をこき下ろすことによって、少しでも憎悪の感情を解消しようとしているのでしょう。

一旦、誰かを憎く思いますと、その人の言う事・為す事の全てを否定したくなるものです。もしも小さな利益を受け取らないでいれば、それは清廉そうに見せているだけで、実はもっと「大きな利益を得ようとして」いるに違いない。そうやって「名声を上げようとしている」だけなのだと誹謗中傷して来ます。

その手の人は、人間の真心や善心というものを信じていません。社会貢献に生き、世の為人の為に活動している人には、必ず不純な下心があるに違いないと初めから思い込んでおります。

兼好法師は、それを「下愚の性(しょう)」、つまり大変愚かで卑しい性分の者であると嘆き、そういう者が賢者に移ることは不可能であるとまで断じました。下愚の人は、謙虚さを示そうとして、たとえ嘘であっても小さな利益を遠慮することは出来ないし、一時(いっとき)の演技であっても、賢者を真似て立派な態度を取ることもあるまいと。

我々は下愚の性に落ち込まないよう、もっと自分の持つ天分を見出し、それを利他に生かすことで真に賢い人を目指すべきです。兼好法師は、それには真似するのが一番良いと教えました。

もしも「狂人の真似だといって大道路を(狂ったように)走れば、そのまま狂人」であり、「悪人の真似だといって、人を殺せば悪人」となってしまいます。

しかし「(一日に千里を走るという)駿馬を見習う馬は駿馬と同類」となり、「(伝説上の聖王である)舜に学ぶ者は舜の仲間」となっていくものであるとのことです。

要するに、他人の悪い点は真似せず、自分の悪いところを直すよう心掛ける。また、他人がしている良い事を真似し、それを自分に取り入れて自己成長に励むということが肝腎なのです。

そうして、最初は物真似(ものまね)レベルに過ぎなくても、賢者に学ぼうと努力を重ねていけば、やがて回りから「あの人こそ賢者だ」とまで呼ばれる段階に至るというわけです。まなぶ(学ぶ)の古語が「まねぶ」であるように、真似ることは成長の基本なのですね。

なお、嫉妬心についてですが、松下幸之助翁は嫉妬心の活用法として、狐色に焼けばいいと教えていました。真っ黒焦げになるまでジェラシーの炎を燃やすから問題なのであって、程良く狐色に焼けば、お互いの心がときめき合うことにもなるから、むしろ人間関係を良好に保つ潤滑油になると。

そこで林塾(政治家天命講座を主催する林英臣政経塾)では、「同志の活躍を心から喜べ! 決して妬むな! もし悔しければ、その想いの力を自己成長に振り向けよう」(五誓)と常に唱え合うことで、嫉妬心による足の引っ張り合いや潰し合いが起こらないよう戒めてまいりました。(続く)