講師をしていて嬉しいのは、弟子の成長を見られるときです。見識が深まったな、ものの見方が偏らなくなったな、怒りの感情だけで発言しなくなったな、周囲を惹き付ける人間力が養われてきたな、などというときに喜びを感じます。成長する受講生は、目が輝き出し、表情が明るくなり、どんどん動きが良くなります。
中には成長が止まり、伸び悩んでいる者もいます。かつてのキラキラした目の輝きは消え、だんだん表情がくもり、腰が重たくなるといった現象も起こります。無論、そういう者たちを見捨てることはしません。低調なときは次の準備期なのですから、しっかり基盤となる信念を養っていただきます。
後者となる理由に、成長途中の停滞期(スランプ)に填っているということがあります。あるいは、一定の頂点に到達したため、そこから先の伸び代が失われてしまったという場合もあり得ます。
伸び代が失われるというのは、そこで希望を見失うことになるのですから、想像以上に辛い事態です。それを避けるため、敢えて頂点の手前で昇進を止めることで、その先の伸び代を残しておくという方法もあるようです。
徒然草に、次のような話が出ています。朝廷では、一切の政務を総理する太政大臣が最高位で、それに続くのが左大臣、その下が右大臣でした。「竹林院の入道左大臣殿」と呼ばれた西園寺公衡(きんひら)は、いよいよ「太政大臣に昇進なさろうとするとき」、障害となる問題は何も無かったのに、太政大臣に就くことなんて「珍しくも無い」と覚りました。
そして、左大臣の地位で終えて「出家されてしまった」とのこと。また、これを知った「洞院(とういん)の左大臣殿」と呼ばれる藤原実泰は、「この事を感心なさって」太政大臣になろうという願望を持たれなかったというのです。
西園寺公衡や藤原実泰にとって、太政大臣は名誉職に過ぎず、その地位に就いたところで特に為すところはなく、左大臣のままでも仕事は十分に果たせたのだろうと推測します。太政大臣に昇進しようとしてあくせくするよりも、まだ一つ上があるということを余裕と捉えていたほうが、精神的にもずっと健康であると考えたのではないでしょうか。
勢いを持った龍も、昇りきってしまえば亢龍(こうりょう)となって終わります。亢龍は天井を打った龍のことで、それ以上昇ることは無いため後悔するばかりとなります。
物事には盛衰というものがあり、「月は満ちては欠け、物は盛んになっては衰え」ます。だから「どんな事も(頂点に達して)先が詰まっているのは、破滅に近い道である」と兼好法師は戒めました。
人は伸びきると、その先の目標や希望を見失って醜くなります。ものに感じなくなり、自分を超えたものに対する感激や感動が乏しくなります。その結果、目の輝きが消え、表情がくもり、いつの間にか腰が重たくなってしまうというわけです。
そうなるくらいなら頂点の手前で止めておけ、というのが兼好法師の教えなのです。但し、使命感に基づいた志があるならば、伸び代自体が先へ伸びていくでしょうから、堂々と太政大臣でも何でも目指すべきです。肝腎なことは、まだまだこれからという意気を保てるかどうかです。(続く)