続いて、兼好法師が説く「嘘の種類」の続きです。
第三は「本当らしく」聞こえるものの、その「所々をややぼかし」てあり、「よく知らないふりをしながら、話の辻褄(つじつま)を合わせて」いる嘘です。全てを鮮明に言おうとすれば、元々嘘なのですから粉飾だらけとなって、虚言であることがばれてしまいます。そこで巧みな嘘つきは、所々をぼかしつつ辻褄を合わせることで、嘘にストーリーを作っていきます。
誰でもいい加減な嘘に、この自分が騙されるはずがないと思っているのですが、辻褄を合わせたストーリーで聞かされますと、「ふんふん、なるほどそうだ、きっと真実に違いない」などと思い込まされてしまうのです。この手の虚言は、客観的な判断力を持っているはずの知識人までうっかり騙されてしまうため、実に「恐ろしい」と言えます。いわゆる陰謀論は、大抵その類といっていいでしょう。
第四は、自分にとって心地良い嘘です。偽りであっても、それが「自分にとって名誉になる」嘘である場合、「人はさほど抗弁しないもの」であり、いやそれほどでもないと謙遜しながら受け入れてしまうことになります。私のことを間違って受け止めているようだけれども、誉められたわけだし、まあ訂正しなくてもいいかという状況です。
さらに第五は、巻き込まれてしまうことになる嘘です。「その場にいる人たち皆で盛り上がっている虚言」が困りもので、その中で嘘を否定するのは大変勇気の要ることです。その話題が嘘であるということを知っているが、ここで指摘すべきかどうかを迷ってしまうと。
嘘をそのままにしたのでは皆のためにならないが、そうかといって冷や水を浴びせ掛けるように否定するのも如何なものか、などと迷っているうちに、その場にいたということから「証人にさえされてしまって、いよいよ嘘が定まってしまう」ことになるという次第です。
これらと似たような体験は、誰にでもありそうです。人間と社会をよく観察している兼好法師だからこそ、まとめることの出来た「嘘に関する評論」だと思われます。(続く)