会話の内容は、仲間内で通じる話題ばかり。話に付いて来られない人は仲間外れ。そういうイジメがあります。
会話に入れない人は大変辛い思いをし、「ここに私の居場所は無いなあ」と辛がり、「私の来る場所では無かった」と悲しむことになります。
明白なイジメは許せませんが、気付かないうちに人を排除してしまっている場合もあります。人間は、つい自分たちだけで理解し合える言葉を選んで会話しがちだからです。
“仲間言葉”によって、確かに一体観は強まります。でも身内で固まる分、外部に対する壁を作ってしまい、その外に追い遣られた人たちは離れて行くしかありません。
身の回りを振り返ってみましょう。仲良くしている者の輪の中に、久し振りに来た人や、新しく参加した者が会話に加われないということが原因となって、なかなかメンバーが増えない、定着しないといった結果を、どこかで引き起こしてはいませんでしょうか。
お店であれ、勉強会であれ、そこに行けば仲間がおり、会話が弾むから参加が楽しくなるのです。意思が通じ、自分を仲間として受け入れてくれる所に人は集まるということ、それは昔も今も変わらぬ人間学の真理です。
《徒然草:第七十八段》
「当世風のいろいろな珍しい事を言い広め、もてはやすことは受け入れられない。世間で言い古されるまで、知らないでいる人は奥ゆかしい。
初めて来た人などがいるとき、自分のほうで言い慣れている話題や物の名前などについて、知っている者同士で一部を言い交わし、目を見合わせ笑い合うなどして、意味の分からない人に理解出来ない(不快な)思いをさせることは、世間を知らない下品な人が、きっとやることである。」
※原文のキーワード
当世風…「今様」、もてはやす…「もて成す」、言い古される…「こと古(ふ)りたる」、奥ゆかしい…「心にくし」、初めて来た人…「今更の人」、自分のほう…「ここもと」、言い慣れている話題…「言ひつけたることぐさ(言種)」、知っている者同士…「心得たるどち」、一部…「片端」、意味の分からない人…「心知らぬ人」、理解出来ない…「心得ず」、世間を知らない…「世なれず」、下品な人…「よからぬ人」、きっとやる…「必ずある」(続く)