其の十九 事実をそのまま伝えるだけでは、味気なくて面白味に欠ける…

虚言(そらごと)と言えば、兼好法師は死後になってから出自を改竄(かいざん)されてしまいます。長年『徒然草』の作者は「吉田兼好」とされてきましたし、筆者もそのように学びましたが、実はこれが虚構であったということを先に述べました。

全国の神道界に勢力を築いた吉田神道家(吉田兼倶)が、有名人であった兼好法師(卜部兼好)を詐計によって吉田家一門に組み込んだため、後の人々はそれを鵜呑みに信じ込まされたのです。虚偽に注意せよと説いていた兼好法師が、死後になって嘘を言われてしまうのだから皮肉なものです。

どうも人間は、面白味の無い真実を嫌うようです。「世の中に語り伝えている事で、真実と言える事は面白くないのだろうか」と。

ノンフィクションである真実の中にこそ、学べる事や感動する事が多く存在するはずと思うのですが、事実をそのまま伝えるだけでは、どうしても味気なく面白味に欠けるのでしょう。そこに何らかの脚色なり装飾を加えないと、聞く人をわくわくさせられないということのようです。

そのため、何事につけ「事実以上に作り事をして語る」ようになってしまいました。さらに、年月が過ぎて過去の話となり、場所も隔たった地方や外国の話題となると、もう「言いたい放題に創作して語られていき、文書にも書きとどめられてしまえば、そのまま定まってしまうことになる」というわけです。

また「諸芸の道の達人の(技量の)優れている点について」も、素人で「その道を知らない」にも関わらず、「無闇矢鱈(むやみやたら)にまるで神のようだと誉め称える」人がいます。それを「道を知っている人」が聞いた場合、「全く信じる気持ち」になりません。

達人や名人の技というものは、それが一体どのように優れているのかについて、素人目には分かり難いものです。凄いことまでは分かるけれども、何がどう立派なのかは、やはりその道に通じた人でなければ掴めないと。

そういうことから、大袈裟な評判として「噂(うわさ)に聞くのと、実際に見るのとでは何事でも違いがある」ということになるのです。(続く)