其の二十六 人が集まる場所で、ホスト役は何をするのか?

熱心に流行を追い掛け、それをいち早く知ったり手に入れたりすることに血眼(ちまなこ)となり、人に見せびらかしては、これ見よがしに「どうだ」とばかり自慢する輩(やから)がいます。「当世風のいろいろな珍しい事を言い広め」ることに熱心で、聞いている者たちが驚くことで得意気になる人のことです。

兼好法師は、そういう流行を「もてはやす」姿を軽薄であるとし、美意識として「受け入れられない」としました。それよりも、「世間で言い古されるまで、知らないでいる人」のほうが、ずっと「奥ゆかしい」と。つまらない流行に心奪われることなく、誰もが知り終えてから、やっと気付くくらいのほうが謹み深くて良いというわけです。

先進の有益な情報は勿論早く知っておくべきでしょうが、どうせしばらくしたら誰一人見向きもしなくなるような流行り物の場合、それらばかり追い求めていたら人物としての軸が少しも養われません。

兼好法師が特に問題としたのは、そうした流行に敏感な仲間同士や、何かの話題に長じた者同士の中に「初めて来た人などがいるとき」の態度です。ここぞとばかり、仲間内で「言い慣れている話題や物の名前」だけを口に出し、わざと自分たちのみに通じる断片的な略語を用いるといった閉鎖的状態をつくってしまう人がいるものです。

初めて来た人は、仲間外れにされたことで困惑します。その様子を見、面白がって笑いものにするということは本当に愚かなことでしょう。「世間を知らない下品な人」ほど、「きっとやることである」と注意を促しました。

ところで、「もてはやす」の原文は「もて成す」です。筆者は私見として、もて成すは「持て成す」だと考えています。徒然草第七十八段の「もて成す」は、「当世風のいろいろな珍しい事」を大事に扱う様子のことでしたが、一般的には「取りなす」とか「ちやほやする」、「ご馳走する」といった人に対する丁寧な態度を意味しています。即ち、相手の心を大切に持ち、温かい人間関係を成していくのが持て成すであると。

そうであれば、ホスト役が重要となります。人が集まる場におけるホストの役割に、輪に入れない人がいないかどうかを常にチェックし、会話に加われるよう気を配るということがあります。タイミングを見て語り掛け、話題を振っては発言を誘うのです。

私は講義・講演後の懇親会に誘われた場合、人数がとても多い場合でない限り、必ず一人一人に感想等を語っていただくよう主催者にお願いしています。そして、しっかり発言者の目を見て話を聞き、所々で頷(うなづ)きます。必要に応じて励ましのコメントを述べたり、その場で出た質問に答えたりもします。

だから、自分のペースで騒いで酒席を楽しむなどということは基本的にありません。いかにして参加者を持て成すかを常に考えているのであり、そうしたホスト役は染み付いた天分なのだから仕方ないと思っています。

但し若い頃は、参加者のくどい発言や自己中心的な態度に対して、「あんたみたいな人がいるから、この町は良くならないんだ!」などと真っ向からケンカを売ってしまい、険悪なムードになってしまうことが再三ありましたが…。

これも脱線話ですが、その懇親会のリレートーク中、他人が話しているときは詰まらなそうな顔をしているのに、自分の番になると一転して生き生きした顔付きになる人がいます。あるいは、講義中はいつも眠そうにしているのに、質疑応答時間になると俄然元気に手を挙げる人がいます。

なぜだろうと疑問でしたが、やはり人間は、みんな淋しいんだなあ、自分を認めて貰いたがっているんだなあと感じます。きっとそうやって、それぞれ自分の居場所を確保しようとしているのでしょうね。(続く)