中国・明代の思想家である王陽明は、知ることと行うことは一つであるという、知行合一の行動哲学を唱えました。知ったことは行って初めて完成し、行うことは知ることがもとになっていると。また、知ったからには、それ(お知らせ)を自分へのメッセージ(我が事)として行うべきであり、行うからには、ちゃんと事実や情勢を知らなければ浮足立ってしまうことになります。
行うというのは、ヨガにおいては「行」となります。行の大切さを、沖正弘導師は次のように述べています。
中国・明代の思想家である王陽明は、知ることと行うことは一つであるという、知行合一の行動哲学を唱えました。知ったことは行って初めて完成し、行うことは知ることがもとになっていると。また、知ったからには、それ(お知らせ)を自分へのメッセージ(我が事)として行うべきであり、行うからには、ちゃんと事実や情勢を知らなければ浮足立ってしまうことになります。
行うというのは、ヨガにおいては「行」となります。行の大切さを、沖正弘導師は次のように述べています。
沖正弘導師は語ります。誰もが正しさを求めるが、そもそも正しさとはどういう状態なのか。
「正しくありたいという願いをもたない人は、おそらくいないことと思います。しかし「正しく」という状態が、わかりにくいのです。正しさとは、どういう状態でしょうか。」
(1974沖正弘『ヨガ叢書第一巻 ヨガに生きる』霞が関書房p.24.)。
自分がこの世に生まれ、こうして生きているのは、宇宙のために必要だからである。私たちは神、即ち大宇宙の生命原理に従って、そのお役に立てるような人間にならなければいけないと沖正弘導師は説かれました(1974沖正弘『ヨガ叢書第一巻 ヨガに生きる』霞が関書房pp.21-22.)。
生成発展、それによる進化と調和こそ、宇宙の原理でしょう。それを生かし、先頭に立って「宇宙の期待」に応えるのが人間の役割なのです。
組織や団体には、内紛が付き物です。集団内に何らかの対立が起きますと、同じ仲間同士であるにも関わらず、酷ければ非難の応酬合戦となります。そのとき、双方とも自分の側が正しく、相手側が完全に間違っているという態度を取ってしまいます。
そもそも物事というものは、右から見るのか、左から見るのかによって、全く違う景色が見えてきます。積極的な姿勢を見せれば傲慢だと文句を言われ、謙虚にしていれば逃げているなどと非難されてしまうようなものです。同じものを見ているのに、それを見ている者の意識によって、仏にも鬼にも見えてしまうわけです。
自分に適した救われ方は、結局自分で発見するしかない…。では、その発見のためにどうすればいいのでしょうか。それは、苦しみや楽しみを「与えられた教え」として受け止め、そこから自分の生き方や在り方を発見していくのが一番いいということになります。沖正弘導師の言葉から、それを学んでいきましょう。
「苦しみは、ありがたいもの、それはなぜ(か)、苦しみにせよ、たのしみにせよ、すべては神のお与えであり、神わざであり、宇宙の教であるからだ、正しければ、たのしみで教えていただける。誤っていれば、苦しみで教えていただける。どちらもありがたいものだ。」※(か)は筆者が加筆(1974沖正弘『ヨガ叢書第一巻 ヨガに生きる』霞が関書房pp.14-15.)
苦しいときや辛いとき、誰だって何かにすがろうとします。当然のこと、助けを求めて良いのですが、同時に自力で何とかすることも忘れてはなりません。
沖正弘導師によれば、救われ方には真実の救われ方と、そうでない救われ方があり、前者は自力で救われる在り方だそうです。
生活がそのまま修養法となり、そのまま健康法となるところに、沖ヨガの基本があります。
「ヨガは理論の宗教ではない。修行の宗教である。即ち生活行法をそのまま宗教とみているのである。起った現象、与えられた縁をそのまま神の恵み神のみ教えと受け取り真理を学んでそれを活用するのである。病をして健康法たらしめ、迷いをして悟りへの道たらしめる。これがヨガ的生き方である。」
(1974沖正弘『ヨガ叢書第一巻 ヨガに生きる』霞が関書房p.14.)
お前が自分のことを諦めたとしても、この俺はお前の可能性を諦めてはいない…。この沖正弘導師の言葉には、相手の内に眠る「その人自身を救う力」を、私は決して諦めてはいないという意思が込められています。
続けて沖導師は、自分の内なる力を信じよと語ります。
人間は本来、健康に生きていけるように出来ている。身心の調子を整える作用や、自然治癒力といった働きは、誰にでも宿されている。それを円滑に機能させることが重要であるという考え方は、連載をご覧の皆様に、次第に理解されてきたことでしょう。
病氣やそれに伴う痛みや辛さなどの症状。沖ヨガにおいては、これらを全面的に敵視しません。むしろ、修正作用や浄化作用をもたらしてくれる味方であると考えます。
「病は如何なるものとして受け取るべきものであろうか、病は生命の安全弁であり、異常を正常にかえようとする修正作用であり、心身毒の浄化作用である。
このように解釈する時、病んでいる事が即ち治されていることであり、病んでいるということ、苦しんでいるという事はその人の生活が間違っているということであると気付くことができる。」
(1974沖正弘『ヨガ叢書第一巻 ヨガに生きる』霞が関書房p.11.)