楽になると忘れてしまうという話を一つ。筆者は東洋医学の資格を持っていることから、知人や縁者に治療をすることが時々あります。突発性の腰痛(ぎっくり腰)などは手技療法で何とかなる場合が多く、取り敢えず動けるようになっていただけます。
ぎっくり腰は、冷や汗を流すほど痛がります。どうにか動けるようになったとしても、その後の様子がやはり心配です。それで、次に会ったときに経過を伺うのですが、大抵「何のこと?」という感じでポカンとしたお顔をされます。しばらくして、私から応急手当てを受けたことを思い出され、「そういえば、あれで治りましたね。涙を流すほど痛い治療だったけど、とにかくお世話になりました…」などと返答されます。
治療を受けたことなんて、すっかり忘却するほど快復されたなら、もちろんそれが一番良いことです。しかし問題は、その痛みや辛さが、生活の在り方や心の持ち方を切り替えさせるための「お知らせ」であった場合です。せっかくの「お知らせ」を消してしまったことで、生活や意識が変わらないままというのでは、後になって困ることになるのかもしれません。
あくまでも治療家のやる事は、患者さんの痛みなど辛い症状を取ってさし上げることである。楽になってからどう生活を変えていただくか、心の在り方をどう明るいほうへ向けていただくかといったことは、そもそも「治療の範囲」には無いことである。そのように考えるのが普通でしょう。
確かに、どう生きるかは個人的な問題です。治療家が口を挟むことではないと言われれば、本当にその通りです。治療家は患者の辛い症状に対応するのが本分であり、症状を緩解させることで精神状態が楽になれば、もうそれで十分ではないかと。
ところが、先述の通り痛みが消えて楽になったら大抵それでオシマイです。病氣や症状を、生活の在り方や人生に対する考え方を変えるための大切なきっかけに生かしました、などという人は寡聞(かぶん)にして聞いたことがありません。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の諺の通り、辛かったときのことも治療を受けたことも、一通り忘れてしまうが人間の性(さが)です。従って、不健康で怠惰な生活や、自己本位で責任転嫁する考え方は、変わることなくもとのままとなります。
問題は、やはり生活の在り方や心の持ち方にあります。痛みや辛さといった症状が、生活や意識を切り替えさせるための「お知らせ」であったとするならば、それらをもっと生かさなければ勿体ないはずです。
応急手当はもちろん必要です。でも、痛みだけ・患部だけ診ていたのでは根本解決にならないのです。実際、同じ症状がまた起こるか、あるいはより根が深くなっていくかの繰り返しとなります。(こういうことは、政治分野にも言えることでしょうが…)。
まあ、そういうことばかり考えていましたので、「慢性症状から救われたければ、もっと他のために生きなさい」と教えている沖ヨガ修道場に、早く行きたいという思いが募る一方でした。(続く)