小学校6年生から、高校2年生くらいにかけてのことです。いわゆる霊感(インスピレーション)が働いて、相手の心が読めたり、次に起こる事が分かったりすることが毎日のように起きました。
17歳になったばかりのある日(高校2年生の三学期)、「21世紀は人類にとって危機の時代となる。しかし、危機を救うカギが東洋にある。おまえは東洋を学べ!」という啓示を受けたのです。それは、確かに人の声のように聞こえました。不思議なことに、そのとき以来、妙な氣持ちが生ずると同時に働いていた霊感がほぼ消えました。
そうして、日本を含む東洋の探究を志すようになります。早速、高校の進学資料室で、東洋について学ぶことの出来そうな大学を調べてみました。ところが、あれこれ見ていてもピンと来るものがありません(高野山大学にだけは惹かれるものがあり、のちにその大学院の修士課程で学ぶことになります)。
私は、東洋を大きく捉えるところからやりたかったのです。が、それらしい学科を調べてみても、○○学の概論や概説というのが沢山並んでいるばかりです。
これでは部分の勉強に嵌(はま)ってしまうだろうなと勝手に受け止め、結局、鍼灸(しんきゅう)や按摩(あんま)マッサージ指圧など、東洋医学の治療法から学ぶことにしました。医学という実学から入ったほうが、東洋の全体像が掴めると直観したからです。
この直観は当たっていました。進学した東洋医学の専門学校(東京都新宿区四谷。入学時の校名は東京高等鍼灸学校。※当時、晴眼者が学べる鍼灸の専門学校は全国に10校足らずであった)で学んだ座学の多くが、解剖学や生理学、病理学などの西洋医学であったため、結果的に東洋と西洋の考え方や在り方の違いがよく分かったのです。大まかに言えば、西洋は部分観による分析に、東洋は全体観による綜合性に長(た)けているということが理解出来ました。
また、専門学校の同級生であった人物(当時36歳の窪田耕二氏、後の防府日報社社長)からのお誘いで詩吟や国学などの勉強会に参加したことをきっかけに、大和言葉の師である河戸博詞先生や、文明法則史学の師である村山節先生、東洋思想の大家である安岡正篤先生と出会うことが出来ました。
それから、武道の稽古にも励みました。専門学校の放課後、東京都文京区にあった居合道(夢想神伝流)や杖道(神道夢想流)の道場(研修館)に通い、卒業までにそれぞれ三段と二段をいただきました。空手道もやりました。やはり専門学校の同級生に松濤會五段(中央大学空手道部元主将)の猛者がいて、4名の有志と一緒に放課後に稽古をつけてもらいました。
こうした専門学校3年間の学びが、綜學の大系化の基礎となります。学びとは、鍼灸や手技療法を基本とする東洋医学、東洋の時代になることを予測している文明観、大和言葉と国学、そして武道の稽古などです。
そうやって、松下政経塾に入る前に、綜學の基盤が大方出来ました。私は20歳になっていました。基盤づくりの仕上げが、静岡県三島市にあった沖ヨガ修道場での1年間の住み込み研修です。(続く)