静岡県三島市にある沖ヨガ修道場には、高校三年生の夏休みを利用して、夏期特別講習会に一週間参加しています。高校の同級生たちは、大学受験勉強に専念しています。そういう大事なときに、私は全く違う道へ向かおうとしていたのです。
講習会で、何冊かの沖ヨガの本を購入しました。その中の一冊が『ヨガ叢書第一巻 ヨガに生きる』です。本連載では、同書を元に沖ヨガ哲学の内容を紹介しながら、綜医學の考え方について考察してまいります。
その5頁に「病いとは何か、悩みとは何か」という問い掛けが出ています。
「本来正常なる生命の働きが働いているから、私達は生れてきたのであり、また生きているのである。だから病まず悩まないのが、当り前の姿である筈だ。
しかるに現実は如何、まるで病んだり苦しんだりする目的のために生まれてきたのではなかろうかとの疑問さえもちたくなる位の現状である。
「病いとは何か、悩みとは何か」
それは不調和な働きをなしている働きを、本来の真実の姿である所の、バランスのとれた状態、すなわち正常な働きの状態に帰えそうとする生命の働きの現れである。
「解釈の仕方がキイポイントだ」
人生の上に起る諸現象の受け取り方如何に依って運命の方向が決るのであるとシャカは教えられた。これは真理であるから、その人の人生はその人の受けとり方の産物であるといっても良いのである。」
(1974沖正弘『ヨガ叢書第一巻 ヨガに生きる』霞が関書房pp.10-11.)
沖ヨガ修道場では、正常な状態の人と病氣の状態の人を別個に扱いません。
そもそも正常な生命の働きがあるから誕生したのであり、そして今も生きているが参加者たちであると。
しかし、現実には道場の中の人も外の人も、誰もが病んだり苦しんだりしています。それはなぜでしょうか? 病いや苦しみにも、何か意味があるのでしょうか?
それは「不調和な働きをなしている働きを、本来の真実の姿である所の、バランスのとれた状態、すなわち正常な働きの状態に帰えそうとする生命の働きの現れ」だと沖導師は説いたのです。
また、釈尊は病いや苦しみに対する「解釈の仕方」が重要であり、「人生の上に起る諸現象の受け取り方如何に依って運命の方向が決る」と教えられたのだそうです。
受け取り方、即ち心の捉え方について、高野山大学副学長の土居夏樹氏は、次のように述べています。
「大乗仏教の経典である『華厳経』では、「三界唯心(さんがいゆいしん)」─すなわち、「世界は自分の〈心〉がつくり出したものである」─と説いています。」
(2023土居夏樹『はじめての「生と死から学ぶ空海の思想」入門』p.60.)。
沖ヨガや仏教が説くように、自分の心の解釈の仕方や捉え方によって、人生と運命が決るのだとすれば、病いや悩みを異常な状態と決め付け、それらを敵視し否定しようとする姿勢から、まず改めねばならないということになるでしょう。
しかし、先天性の病いや不治の病に苦しむ人々が多く来所する現実の中で、なお生きる意味と喜びを見出すよう促す沖ヨガの教えを、一体どこまで受け止められるのか。本当に心の在り方や考え方を切り替えることによって、全ての人々に救いがもたらされていくのか。わき起こる疑問を逸らすことなく、沖導師の言葉に耳を傾けてまいります。(続く)