「手近なところを正しくすればいい」という心得は、「世を保つ方法」においても同じです。もしも「国内政治に慎重さが欠け、軽はずみで、勝手気まま」な状態に放置しますと、国内の「秩序が乱れ」、「遠国が必ず背(そむ)くこと」になります。
連載
其の七十四 不遇を一気に精算するための、一発逆転狙いは却って危ない?!
兼好法師は「何事も、外に向かって求めてばかりいてはいけない。ひたすら手近なところを正しくすればいい」と教えました。常に、手元や身近なところを大切にせよという教訓なのですが、なかなかこれが難しく、努力しているにも関わらず思うように成果が出て来ないと、だんだん外に目が向いていきます。
其の七十三 改革を急ぎ過ぎると、手元がよく見えなくなる…
手元や身近なところを大切にせよという教訓の続きです。それらは、空間的に近いところであると同時に、時間的にも近いところであるということを、大和言葉の世界観によって述べました。
さて、宋代の名臣に、仁宗・英宗・神宗の三代に仕えた清献公(諡は趙抃、1008~1084)という人物がおりました。清献公は、急進的な改革を目指す王安石(1021~1086)とは意見が合いませんでした。
其の七十二 楽天的にイマを充実させて生きていくのが一番!
手元や身近なところというのは、空間的に近いところであると同時に、時間的にも近いところを意味します。時空は元来一如であり、大和言葉ではそれをマの一音で表してきました。「間取り」や「間合い」なら空間、「間が無い」や「束の間」なら時間というように、マ音は時空が連続体であることを示しています。
アインシュタインが主張した通り時空が連続体であるとすれば、時空の本質・本体とは一体何でしょうか。それは変化・活動そのものにあると考えられます。
其の七十一 目標と手元の、遠近両者を繋ぐところに命中の基本がある!
これら手元や身近なところをよく見よという教えは、目標やゴールが定まっていることを前提とした心得です。ボーリングなら全てのピンを倒すことが、貝合わせならひと組でも多くの貝を取ることが、節分の菓子まきなら沢山の菓子を獲得することが、選挙戦なら当選することが、あらかじめ定められている目標です。それぞれゴールが決まっているからこそ、近くをよく見ることで高い成果を上げられるのです。
其の七十 沢山獲得したければ、上を見ないで下を見よ?!
貝合わせとは、平安時代に行われていた女性たちの遊びで「物合わせ」の一種です。360個の蛤(はまぐり)それぞれの内側に同じ絵を描いておき、出し貝と地貝に分けます。
そして、あらかじめ地貝は伏せて並べておき、出し貝を一枚ずつ出しては貝殻の表側の色合いや模様を見比べ、一致する貝を見つけます。同じ貝であれば内側の絵も同じですから、それで一個を確保したことになるという遊びです。
其の六十九 目標が遠いときほど、近くをよく見よ。そのほうがよく当たる!
距離の離れた目標になかなか当たらないという場合、対策として手元のポイントをよく見ることで命中精度を上げるという方法があります。ボーリングが一つの例で、レーン上の手前にスパットというマークがあり、プロボーラーはピンではなくスパットに狙いを定めて投げるのだそうです。
其の六十八 理解出来たら正しい、理解出来なければ間違い。だから闘争になる…
兼好法師の言う「自分の才智を取り出して人と争う」者とは、常に自己と他者を明確に分け、自己を絶対視しては他人と比較し、自分が優位に立つことで喜びや満足を得ようとする人間のことです。
そして、そういう人は大抵、自分が理解出来る事が正しく、理解出来ない事は間違いであると決め付けてきます。本来、自分が理解出来るかどうかということと、それが正しいかどうかということは、別次元で考察すべき事柄です。それを無理矢理、理解出来る=正しい、理解出来ない=間違いというようにイコールで結び、自分が理解する容量を超えた場合、直ちに間違いと断定し、相手を厳しく裁いては蹴落とします。
其の六十七 真の志士英傑なのか、それとも単なる野心家なのか…
どんなに権勢を誇った人も、一度病に冒されて体調を崩せば、たちまち求心力を失います。そして老衰し、いよいよ亡くなる直前ともなれば、本人そっちのけで醜い後継者争いが表面化するばかりとなります。
中には死後に名が残る人物がいますが、それは一握りであって、大抵の人は引退・隠居とともに忘れ去られていきます。特に政治屋は、その傾向が強い稼業と言えます(だからこそ政治家には哲学思想、即ち確固たる世界観や国家観、歴史観や人間観の修得が必要なのです)。
其の六十六 驕り高ぶった偉そうな様子と、自己中心に偏った願望を捨てなさい!
ところで、聖人と称えられている孔子は、若い頃随分目立ちたがり屋だったという説があるのをご存じでしょうか。いつも背伸びしており、優秀で偉い人と思われないと気が済まないタイプだったというのです。
そんな孔子が、あるとき周の都の洛陽に行き、道家の老子に「礼」について尋ねました。老子は一目見て孔子の思い上がった性格に気付き、次のように答えます。