其の二十三 全体を観・核心を掴み・流れを読むという綜學の在り方

筆者は「綜學」を提唱しています。「綜學」は、全体観による「綜合學問」のことです。全体學である綜學の「ものの見方や考え方」の基本は、何に対しても「全体を観る」ということから始まります。そして、全体を観たら、次に核心を掴み、さらに流れを読みます。

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其の二十二 食べられることを喜びとする果物は“高級互恵食品”

何をどのように食べるべきかについて、沖導師は次のように教えています。

「何を食べるべきかは、その人の、その時(季節のもの)の、その所(生活している地方で産したもの)に適したものを選ぶべきである。つまり生命力の強いもの(蒔けば生えるもの)、できるだけ自然に近い調和のとれたもの(野草、山菜、果実等)、生食(調理しないもの)、完全食(葉・茎・根・頭・骨皮のまま全体をとる)、自然食(加工しないもの)を選ぶべきである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房52頁)。

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其の二十一 少々の毒なら、排泄し浄化してしまえる心身を養うことも大事

「精神の作用」を生かすことで飲食に伴う毒化を防ぐとは、一体どういうことでしょうか。それは、プラスの意識で飲食することによって、食物を真に栄養化させることであり、免疫力を高めることによって、添加物などによる害を極力除去・緩和させよということです。

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其の二十 毒という暗示を受ければ、ただの小麦粉や米粉も毒になってしまう…

さて、元来心身は一如ですから、同じ食物であっても「体の働きの整っている場合は栄養となり、乱れている場合は毒にも」なります。「体の働き」の中に精神状態が当然のこと含まれ、心が乱れると食欲不振による栄養不足に陥ったり、過食による栄養過多や消化不良に悩んだりします。

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其の十九 少し飢餓状態なほうが健康に良い!

自己化してこそ栄養になるという話の続きです。沖導師は次のように教えます。

「真の栄養力は少し食べて、それを完全に消化吸収することのできる体の働きであって、生体は適応作用によって、常に多食していると多食しなければならなくなり、美食していると美食しなければ間に合わないような身体ができあがってしまうのである。そしてたとえ同じ物であっても、体の働きの整っている場合は栄養となり、乱れている場合は毒になる場合もあるのである。消化し易い物ばかり食している場合は、消化し易い物ばかりを消化する胃腸となってしまう。また身体自身が造り出すようなものを薬物で補給していると身体自身は造り出すことを怠けて、造り出さないようになってしまう。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房52頁)。

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其の十八 食べ物は自己化してこそ栄養となる、研修も自己化してこそ活動源となる

生命体は、必要なものを摂取し、不要なものは排泄して生きています。摂取は呼吸と飲食によってなされ、酸素や栄養素が「生命エネルギー」となって生体が維持されます。そうして身体を健全に保つ働きを栄養といい、沖導師は食物による栄養について次のように述べています。

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其の十四 東洋医学は、治療に際して全身のバランス状態を見る

自分を治す力は、もともと自分の中に備わっている。治療は、内在する治す力を引き起こすことを基本とする。そこに東洋医学の在り方があり、その力のことを自然治癒力や自然良能と呼んでいます。

一般に東洋医学では、病名をあまり付けません。病名が付いているということは、治療方針を立てる上でとても大切なことですが、その一方で、患者という人間全体よりも“病気という部分”に囚われてしまう弊害が起こり得ます。

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其の十三 自分にふり掛かる変化を、成長に活用することを自己肯定という

偏らないでバランスを取るということ。これについて沖導師は、次のように述べています。

「生命とは調和維持の働きであり、現象はその要求の現われであり、生体保持の原理は適応性であることを発見した。この観点から苦の原因が生命の働きの不調和性(アンバランス)と不自然性にあることを発見した。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房45頁)。

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