全てに対して何らかの責任を持つということについて、例え話を述べておきます。
会社見学で、ある大手企業を訪問したとしましょう。見学の途中で、社史について尋ねてみたいことが生じました。ガイド役の社員に聞こうと思うのですが、ガイドさんは他の見学者と話しているため、なかなか質問出来ません。そこで、目の前で作業している社員さんに聞くことにしました。
その社員さんは、新入社員か、入社してそれほど年数が経過していない程度の人のようです。まだ若そうですが、会社の制服をきちんと着こなして仕事をしており、雰囲気からもしっかりしていそうなことが分かります。
早速、今から100年は遡る創業期の頃の社史について、あれこれ質問してみました。最初は質問に驚いていましたが、いきなりの問い掛けにもかかわらず丁寧に答えてくれました。
とまあ、こういう事があったとしましょう。その社員にとって、創業期はあまりにも過去のことです。自分はもとより、自分の親すらまだ生まれていなかった昔のことです。だから、入社するまで本人とは全く関係の無い歴史に過ぎませんでした。
でも、その会社の一員となった以上、社史を背負って日々働くことになります。実際、お客様はどの社員に対しても、「100年の歴史を持つ老舗A社の一員」という目で見てきます。新入社員であっても会社の伝統を背負っており、自分と会社との関係を手繰り寄せていけば、社員である自分という存在は創業の原点に至るというわけです。
電信柱が高いことにも、郵便ポストが赤いことにも、大宇宙が存在することにも、この自分は何らかの責任を負っているというのは、まさにそういうことでしょう。全ての現象に対する関係性が、時間軸に対しても空間軸に対しても、この自分にあるという考え方に到達するのです。
そもそも、大宇宙の根源力が一切に及び、その働きであらゆる存在が成立しています。そうであれば、当然のこと自分と他者は融合一体であり、自分の在り方次第で全世界に影響を与えられるということになります。(続く)