「心身の働きが中心に統一されている時の心理状態は、注意が目的に集中して、感受性は最高度に鋭敏になり、意識は鮮明になっているのである。力は集中統一して使うほど強力になる。神経は昂奮と抑制の二力を統一して使うとき最高の力を発揮することができるが、注意力つまり意識が分裂している時には弱まる。多くの人は意識分裂のために、その持っている力をも失ってしまうことが多い。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房82頁)
連載
其の九十 中心が一つ、全体が共通の目的に向かう、各員の持ち分が自由に発揮
最も生命力を発揮するには、心身の働きが中心に統一されることと、身体の各部分が、それぞれ持ち分を自由に発揮できることが重要であると、沖導師は教えます。まさに、「中心(みなか)を立て、分(わけ)を明らかにして結ぶ」です。
其の八十九 中心(みなか)を立て、分(わけ)を明らかにして結ぶ
神道に「中心(みなか)を立て、分(わけ)を明らかにして結ぶ」という教えがあります。
「みなか」の「み」は、身や実の「み」で本源的な本質を、「なか」の「な」は和やか・滑らか・仲間・並ぶなどの「な」で調和を、「か」は陰・風・霞(かすみ)・空(から)などの「か」で、奥深くてハッキリしないものを表します。
其の八十七 「いきのいち(息の内)」が「いのち」になったという語源説
思い通りにならないでイライラしたり、困った事が起きて不安に襲われたりしますと、誰でも息が乱れます。呼吸が小刻みになって眉間に皺(しわ)が寄り、肩に力が入って重心が上がるのです。そういう人が張り詰めた空氣を漂わせますと、周囲にいる人まで緊張してきて落ち着かなくなります。その状態を「息が合わない」と言います。
其の八十六 天分に叶っていれば、次のような現象が生じてくる…
天分を発見するには、いろいろな体験を積み、広く学ぶことが必要です。それが天分にかなう事なら、「これは自分に合いそう」とか、「とにかく興味が湧いてならない」などというふうに、直感的にピンとくるはずです。そして、何事も「やってみなければ分からない」ものですから、実際に試してみることが肝腎です。
其の八十五 どうしても上達できない場合、持ち分(天分)を考察してみるといい…
一口に音楽が好きといっても、歌うことが好きなのか、楽器の演奏が好きなのか、音楽に合わせて踊ることが好きなのか、作曲や編曲が好きなのか、あるいはそれらの組み合わせが好きなのかなど、人によって好みはいろいろな分野に分かれます。いずれにせよ、その一番好きなところに辿り着くべきであり、そうでないと上達が滞ってしまうということを沖ヨガの沖正弘導師が指摘しています。
其の八十四 志は、ただ闇雲に考え、適当に立てればいいというものではない
自分の天分・天性は何か。それを具体的にどう生かすか。そもそも、天分・天性を生かすのは何のため・誰のためか。これらが明確になったときに、志が立ったということになります。
天分とは「天からいただいた我が持ち分」、天性とは「天からいただいた我が個性や特性」のことです。一人一人顔立ちや性格が違うように、誰にでもその人特有の天分や天性があります。
其の八十三 しっかりした志を立てたいなら、余分な力を抜いて感性を磨こう!
「上達するために余分な力を抜く」という心得は、志を立てる場合にも必要です。立志において、どんな余分な力の抜き方をしたらいいかというと、第一に「こびり付いた知識」に翻弄されないということ、第二に俺が俺がという「自己中心的な自我」を和らげるということ、第三に「過度な嫉妬心」に振り回されないということでしょう。
其の八十二 力が抜けてきたら、上達の証(あかし)
諸道諸芸の動作において、それが上達しているということを一体何によって確認したらいいのでしょうか?
それについて沖導師は、全身で動いているかどうかを挙げています。腰と腹、つまり丹田を中心に動作出来ていることが肝腎なのです。丹田を中心に全身が一つになれば、肩や手・足の力が抜けてきて、見た目にも美しい移動になっているはずです。