◇世間は分かってくれず、行ってもくれない◇
第七十章の内容を、加筆しながら分かり易くまとめてみます。
私の教える内容は、当たり前のことばかりだ。天地自然の原理である「道」を説いているのだから、そのまま素直に学んでくれたらいい。本当にこれ以上理解し易い教えは、他には無いはずである。
◇世間は分かってくれず、行ってもくれない◇
第七十章の内容を、加筆しながら分かり易くまとめてみます。
私の教える内容は、当たり前のことばかりだ。天地自然の原理である「道」を説いているのだから、そのまま素直に学んでくれたらいい。本当にこれ以上理解し易い教えは、他には無いはずである。
◇会話や会議、なかなか満足のいくやり取りにならない◇
真意を人に伝えるということ、さらにそれを相手に実行して貰うということは、本当に骨の折れる作業です。一つの例ですが、フェイスブックの投稿に対するコメントを端(はた)から見ておりますと、言葉尻を捕まえた反論であったり、枝葉末節や部分に拘(こだ)った感想であったりすることが、随分多いことに気付かされます。
◇戦争は好んではならないし、備えを忘れてもいけない◇
続いて老子は「禍は、敵を軽んずるよりも大きなことは無い」と述べました。「敵を軽んずる」というのは、戦争を甘く見るということです。戦争は好んではならないし、備えを忘れてもいけません。
もしも「敵を軽んずれば、殆どの吾が宝を失ってしま」います。戦争を甘く見れば、土地や人民という宝を失い、酷ければ主権を失うことにもなるのです。
◇攻めないで退くほうが、却って小国を従えることになる◇
「攻め手とならず受け手となり、一寸を進むよりも一尺を退く」。この、こちらから攻めようとせず、進むよりも退くという姿勢こそ、王道哲学に則った防衛策の基本です。特に、大国から攻めることを止(や)め、小国に対して余裕を示すことが大事になります。
◇攻撃側に立つよりも、防御側に回れ◇
「吾、敢えて攻め手とならず受け手となり、敢えて一寸を進むよりも一尺を退く」というのが、第六十九章の最初の内容です。攻撃側に立つよりも、防御側に回れ。前進することよりも、後退することを心掛けよ。そういう教えが兵法にあるとのことです。
◇勇壮な祭りにケンカは付き物◇
筆者の出身地である静岡県浜松市は、4帖から8帖の大凧による「凧揚げ合戦」が有名です。毎年、5月3日から5日にかけて行われ、町内毎(組毎)に揃いの法被(はっぴ)を着用して皆で凧を揚げます。
合戦というのは、凧糸の切り合いのことです。勇壮な祭りにケンカは付き物で、合戦中に取っ組み合いが起こることもあります。
◇威張ることが好きな「御山の大将」◇
「御山(おやま)の大将」という言葉があります。御山は小山(おやま)と同じで、小さい山の上、つまり小集団の中で、自分が一番偉いと思って威張っている者のことです。
「御山の大将」は、傲慢に振る舞える場を欲しています。威張ることが好きですから、そのために「何でも言うことを聞く者」を集めようとします。
◇威張っている内は二流か三流◇
「優れた士」、則ち立派な武士は、決して荒々しくありません。気弱なのに強そうな態度を取ったり、相手を怖がらせるために虚勢を張ったりしません。実力以上に有能そうに見せることもないのです。
◇老子は、見かけはパッとしないものの中身が優れている人を理想とした◇
見かけと中身を比べたとき、世の中には、いくつかのタイプの人がいることに気付かされます。表と裏、実と虚で見れば、大きく4つのタイプに分類されるのです。「表」は外面や見かけ、「裏」は内面や中身、「実」は充実、「虚」は空虚のことです。
◇怒られているのに嬉しくなるのはなぜ◇
上の立場の人から怒られたら、誰だってムカッときます。でも、嬉しさを感じる場合もあります。それは、自分に対する慈愛を感じたときです。自分に目を掛けてくれていることが分かり、温かさを受け止められたときなら、怒られているのに嬉しくなるのです。