◇法と刑罰が成り立つためには、善悪の基準というものが必要◇
法家は、人を教え導くということを端(はな)から放棄していると述べました。人の徳性を高めるための教化など、しても意味が無いという考えに立っているのです。
しかし、法と刑罰が成り立つためには、どうしても善悪の基準というものが必要になります。何が正しくて、何が間違いか。どれが善くて、どれが悪いか。そういう決める基準は、やはり儒家が示す「人の道」、則ち「仁」や「義」というものを前提にしなければ定めようがありません。
儒家の教えを受け付けない人がいることは確かですし、人徳だけで世の中をまとめようとしても限界があるということだって分かります。でも、法家がその論陣を張れるのも、儒家思想が社会の常識として知られており、それが正邪善悪の基準になっているからなのです。
◇善人や弱者を守り、社会を維持するための手段に過ぎない◇
もしも儒家の説く仁や義、信や徳、忠や恕を否定したまま、法家の主張のみで世の中を維持しようとすれば一体どうなるでしょうか。恐らく、いつも誰かに監視されているような、非常に窮屈で抑圧された社会になっていくものと思われます。
現実社会には、平気で人を騙し、悪を働いて平気な人がいます。従って、必ず法と罰が必要になるということは、その通りです。
しかし、法や刑罰というものは本来、善人や弱者を守り、社会の秩序を維持するための手段に過ぎないのではないでしょうか。人々が安心して、幸せに暮らせるために法があるはずだと。
◇面子に拘らず、恥を恐れず、私心を捨てて直ちに改めるという潔さが欲しい◇
国民を守るための手段であるはずの法が、一人歩きをしていけば、やがて乱用に行き着きます。法をやたらに制定することと、それに基づいて人を次々罰すること自体が目的化していくのです。
法に関わる者は、正しいかどうかよりも自分の成績と面子(めんつ)に拘るようになり、点数稼ぎに躍起(やっき)となって沢山の逮捕者を出してしまいかねません。酷ければ、弾圧だらけの恐怖政治に至ることでしょう。
老子は言いました。「天が(罪を)悪(にく)むところについて、誰がその理由を知っているだろうか」と。天意によって罪とされることを、誰がきちんと説明出来るのか、そもそも人が人を裁けるのだろうかという意味です。そして、人を罰することは、天理の分かる「(道家の)聖人でも猶(なお)それは難しいのだ」と語りました。
刑罰というものは、冷静さを失うことなく、依怙贔屓(えこひいき)を差し挟むことなく、公正の上にも公正を心がけ、天に代わって仕方なく罪人を処罰するというものでなければなりません。裁きを担当する者も人間である以上、間違いはあります。間違っていたら、面子に拘らず、恥を恐れず、私心を捨てて直ちに改めるという潔さが欲しいと思うのです。(続く)