「常に今が大事で、いま自分が生きているという事実が重要、そうでなければ意味が無い」。これは、大和言葉・国学の師である河戸博詞先生による中今(今が中心)の教えだ。
この教えと、意味が重なると思われる思想を、神道学博士・皇學館大学特別教授の松浦光修氏のご著書から学んだので紹介したい。「今を生きている自分が主体である」という点が重なっていると考えられるのである。
「常に今が大事で、いま自分が生きているという事実が重要、そうでなければ意味が無い」。これは、大和言葉・国学の師である河戸博詞先生による中今(今が中心)の教えだ。
この教えと、意味が重なると思われる思想を、神道学博士・皇學館大学特別教授の松浦光修氏のご著書から学んだので紹介したい。「今を生きている自分が主体である」という点が重なっていると考えられるのである。
こんばんは。本日は三島由紀夫氏のご命日です。ちょうど本日の「連載」に、三島氏の「死に様」について書きました。ご覧いただければ幸いです。
◆日記(11月24日~25日)
・24日(月)神武天皇ご即位の地として知られる橿原市。市の一番主要な駅が、近鉄の大和八木駅です。本日は、大和八木駅の名称の由来となった八木町を散策しました。八木町には、伝統的な町家が300軒ほど残っています。
林英臣が講義する講演会・勉強会です。お気軽にご参加いただけますので、是非ともお運びを!関東→中部→関西→中国→四国→九州の順になっております。なお、隔月開催などの会は、来年1月以降の案内になっている場合がありますのでご注意ください。
また、開催日時・場所・内容が、予告なく変更される場合があるほか、天候や交通の事情によってオンライン開催となる可能性もあります。
念のため問い合せ先にご確認の上、ご参加ください。
☆印は連続の勉強会、★印は単発の講演会です。
欧米の心霊学では「通常、人には七柱の背後霊がついて」おり、「それを統括しておるのがマスタースピリット」と呼ばれる主護霊である。宮崎貞行氏は『天皇の国師 賢者三上照夫と日本の使命』の中で、昭和天皇のご進講役であった三上照夫氏の言葉として、そのように述べている(p.107.)。
七柱は、多くの念子体が人を守っているということを表した数と考える。誰にでも沢山のご先祖が存在しているのだから、念子体は一つや二つではなく沢山あるのが自然だ。
こんばんは。新嘗祭の今夜、天皇陛下は天照大御神とご一体になられます。
◆宇宙のはじめ、地球のはじめ、人間のはじめ。
古事記冒頭に記されたこれらの内容は、日本神話にとどまることのない人類神話と言えます。
その素晴らしい内容を子供たちに伝えたい。そのために分かり易い本を出そうと思い、令和3年1月20日に「絵本やまとことば神話」を出版しました。
自分とは何か、どこまでを自己と認めるべきか? 通常、少なくとも五感の認識する範囲までは、「自分を意識」することになる。
しかし、五感で捉えられる「身体」ばかり尊重していると、(個人主義的な)自己愛が蔓延(はびこ)るようになるとのこと。
「個性尊重」、「自己実現」、「自己主張」。これらが大切であると教えられて育った現代人は、とにかく目立とう、何かやって他人に認めてもらおう、自分の都合を優先して我欲を通そうと考える傾向が強い。そうして「俺俺(おれおれ)亡者」が蔓延(はびこ)る世の中になってしまったのだ。
こんにちは。11月も下旬に入り、早いもので間もなく師走ですね。
◆林英臣が講演する「やまとことばの集い」へのお誘い
令和8年1月25日(日)11時~14時(受付10時半から)
「やまとことば」に興味がある皆さまなら、どなたでも歓迎いたします。
会場は「からすま京都ホテル」。参加費は1万円です(税込、食事代含)。
興味をお持ちの方は、「詳細案内求む」と書いて、下記へご一報ください。
kataribe120@gmeil.com
電話050-3706-3849
腹が減ってひもじいのは自分、転んで痛いのも自分。ひもじさや痛さを誰かに代わってもらうことが出来ない以上、ここに「自己という明確な存在」があるという事実を、誰もが認めざるを得ないことになる。
とはいえ、自己はただ自己として、他と隔絶して存在しているわけではない。
「自分」が突然この世に登場するはずはなく、必ず親や先祖がいることによって誕生している。また、天地自然という環境、生まれ育った時代、他人とのご縁などによって成長を遂げていく。
お早うございます。最近、「ドクダミ茶」にはまっています!
晩秋が駆けるように過ぎゆき、来週は冬の寒さになりそうです。
◆綜医學講座で、いよいよ空海の思想を講義します。
皆様のご参加をお待ちしています。スポット参加も可能です。
「人間」の本質は何か? 物質なのか、それとも精神なのか…。人間を物質の集積と捉えたら唯物論、精神の現れと捉えたら唯心論となる。
河戸国学は、唯物論も唯心論も超えている。物質・精神に二分することなく、身体と心体を一体に捉え、それらの融合によって霊体が生じるとするのが河戸国学の霊魂観である。