◇求心力がなくなると無秩序状態になる◇
人は一人では生きられません。生活するには必ず仲間が必要です。
人が集まればイエ(家)やムラ(村)などの共同体となり、さらに大きくなればクニ(国)となります。
国家は悪であるという考え方があります。外に向かっては国家同士が相争い、内に対しては人民を苦しめて止まないのが国家権力であると。いっそのこと、国家を消滅させることが、平和と安心への道になるだろうという見解です。マルクス主義者や、無政府主義者が唱えた国家観がそうでした。
◇求心力がなくなると無秩序状態になる◇
人は一人では生きられません。生活するには必ず仲間が必要です。
人が集まればイエ(家)やムラ(村)などの共同体となり、さらに大きくなればクニ(国)となります。
国家は悪であるという考え方があります。外に向かっては国家同士が相争い、内に対しては人民を苦しめて止まないのが国家権力であると。いっそのこと、国家を消滅させることが、平和と安心への道になるだろうという見解です。マルクス主義者や、無政府主義者が唱えた国家観がそうでした。
◇自分の念子レベルの高さが問われている◇
「鬼神の威力が失われたわけではないのだが、人を傷付けなくなる」という老子の言葉は、神霊の働きや現象が無くなるわけではないが、自然体でいれば傷付けられなくなる。だから、決して恐れないようにという意味でした。
そして「鬼神が人を傷付けないばかりか、聖人もまた人を傷付けない」と。
聖人は非常に立派な人のことで、鬼神と聖人を同列に論じるというのは少々乱暴な気もします。が、どちらも自分の(こちらの)念子レベルを高くしていれば問題ないというのです。
◇宇宙の最初に意志があった◇
さて、一段と飛躍した話になりますが、筆者は宇宙全体が念子の集合体なのではないかと思っています。
宇宙を物質が広がったものと見るか、精神が及んだものと観るか。唯物論と唯心論の論争につながるこの問いは、将来の科学が究めねばならない重要テーマです。
◇達人には、常人の力を超えた何かが備わっている◇
達人と念子の関係について、ここで改めて述べておきます。
達人には、常人の力を超えた何かが備わっており、通常その力は天分や天性に起因しております。
天分は生まれながらに備わっている、「天から頂いた我が持ち分」のことです。天性というのも同じことで、「天から受けた我が個性」のことです。
◇念子のヒモ◇
生きている間に為すべき一番の仕事。それは、可能な限り沢山のプラスの念子を残すということに尽きます。後に続く人たちにとって有益となる念子を、どれだけ放つことが出来るか。
プラスの念子が多いほど、死んだ後に残り続けることになるミタマやタマシヒ、つまり念子体が素晴らしいものになります。価値のある念子こそ、本当の意味の遺産ではないかと思います。
◇粒子が集まって玉となったエネルギー体がタマシヒ◇
霊魂について、大和言葉の解説をしておきましょう。ミタマ(御霊)やタマシヒ(魂)が、霊魂を意味する大和言葉です。
「ミタマ」は「ミ」+「タマシヒ」とお考え下さい。ミは実や身のミで実質(粒子)を、タマシヒは「タマするヒ」または「タマなすヒ」で、玉のようにまとまったエネルギー(火や日)を表しています。つまり、粒子が集まって玉となったエネルギー体がタマシヒなのです。
◇筆者の曾祖父・林由三郎の「殉難の碑」◇
先祖の念子と供養について、筆者の例を述べておきます。
父方の曾祖父に林由三郎という人がいました。由三郎は、北辰一刀流免許皆伝の腕前を生かして警官をしており、首相の護衛官も務めていました。やがて亜細亜(アジア)への志を立てて台湾に二回渡り、二度目の時は台南省恒春弁務所管轄の派出所に勤務します。
◇有っても感じないし、感じても影響を受けない◇
『老子』第六十章の本文に戻ります。「(無為自然の)道に従って天下に臨めば、鬼神は祟らなくなる」というところまで解説しました。復習になりますが、道家のいう「道」は天地自然の根本原理のことです。自然の働きに逆らわず、それに順応しつつ、その原理を生かしていくのが道に従うということの意味です。そうすれば、霊魂や先祖霊、精霊、お化け、妖怪などの鬼神に祟られなくなるということでした。
◇マイ神社を持とう◇
身近で行える「低念子を受けないですむ方法」の続きです。
お勧めしたいのが、既に述べている神社参拝です。
神社は神様が住む場所ですから、基本的に「土地が持っている力」の高い所に建てられています。鬱蒼とした鎮守の森もあり、場のエネルギーがとても充実しているのです。
◇水で禊ぎ、空気で祓う◇
神社に参拝するとき、まず手水舎で手を洗い、口をすすぎます。この水で浄めることを「禊ぎ(みそぎ)と言います。
そして、拝殿に昇って正式参拝となれば、神職に大麻(おほぬさ)を「ばさっ、ばさっ」と振って貰います。この祓麻(はらへぬさ)で浄めることを「祓い(はらい)」と呼び、空気によって低念子を除く方法であると考えることが出来ます。また、「人形(ひとがた)」に息を吹きかけて罪汚れを祓う行事がありますが、これも息という空気を介しての祓いでしょう。