【表層の原点1】筆者は高校2年生のある日、「21世紀は人類にとって困難な時代となるが、それを救うカギが東洋にある。おまえは東洋について学べ」という啓示を受けました。このインスピレーションが表層の原点となり、東洋学の研究と啓蒙によって、世界人類の救済に生きることに素志を定めたのです。(表層の原点というのは、今に至るまで本氣で継続している志(立志)の、そのきっかけとなった原点のことです)。
連載
その39 水準点をお墓と間違え、お線香を上げて祈る
高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文ら松下村塾の塾生たちは、師の吉田松陰から日本の将来を託されて志士となりました。筆者はどうかと言うと、「大和言葉の日本学」の師匠である河戸博詞先生、文明法則史学の師匠である村山節先生、そして松下政経塾の創立者である松下幸之助塾長から後を託されて、「東洋・日本思想家」としての志士になりました。
その38 在野の者たちよ、志士となって立ち上がれ!
◆吉田松陰による徹底した啓蒙努力
松陰は、そこに人がいるなら、場所を選ばず持論を述べました。それは、牢獄の中でも、護送の途中でも徹底されました。野山獄では、同囚の人たちと孟子の輪講会を起こし、解説を加えて啓蒙に努めました。護送の途中では、付き添い役人に話し掛け、憂国の想いを熱心に伝えました。野山獄では獄舎の役人が、護送のときは監視の役人たちが、いつの間にか弟子同然になってしまったのですから凄いことです。
その37 これは昔のことだが、今なら、そして君ならどうするか
◆吉田松陰による本氣の立志教育
吉田松陰の本氣は、何よりもその行動に現れます。失敗はしたものの、この目で西洋文明を見てやろうと志してペリーの黒船に乗り込み、そのままアメリカに連れて行って貰おうとしました。鎖国の時代に、この本氣の決行は凄いことでした。
その36 大切なのは居室の広さではなく精神の広さ
◆吉田松陰による大局観察の教育
吉田松陰は初めて訪れた場所で、まず高いところに登って全体を見渡し、それから町を歩くようにしたそうです。
また、歴史の講義をする際、しばしば地図を開いたそうです。それは物事を全体から眺め、大局に立って情勢判断する能力を身に付けさせるためです。
その35 はじめの思いが大事~最初に無いものは最後まで無い
◆吉田松陰による原点認識の教育
続いて、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、野村靖ら、多くの志士を育てた吉田松陰の「教育の原大本徹」について述べます。
松陰は「人は初一念が大事」であると諭しました。初一念というのは、事を起こすにあたっての「はじめの思い」のことです。何のため、誰のため、なぜ始めたのかという人生の出発点、すなわち原点に他なりません。
その34 信長による、天下統一への知恵と工夫
◆織田信長の徹底
信長は、使えるものを残さず生かし切るよう、知恵を働かせ工夫に努めました。それが信長の徹底であり、35歳で上洛するときは足利将軍のブランド力を利用します。足利将軍の地位は、既に地に落ちておりましたが、僅かながら権威が残っていました。
その33 信長が本願寺と戦い、延暦寺を攻めた理由
◆織田信長の原点
織田信長の原大本徹についても、簡単に述べておきます。信長は内紛だらけの尾張に育ちました。弟を殺さなければ収拾が付かないほどの分裂状態にあったのです。その生い立ちが原点となって、統一への強固な意志を持つようになりました。
その32 大化改新の仕掛け人は聖徳太子
さて、大化改新によって豪族による私地・私民が廃止され、国民には一定の田畑が支給されることになりました(班田収授)。豪族たちの既得権益を没収する、一種の共産主義的大改革を断行したのですから凄いことです。政治は中央集権的な体制に改められ、新しい国づくりが進むことになりました。
その31 大化の年号によって、日本の自立を内外に宣言!
さて、大化改新(西暦645年)とは一体何だったのでしょうか。一言で言えば、豪族連合政権による社会秩序を終わらせ、新たに中央集権的な社会秩序を始めるための誕生点でした。
豪族連合政権によって形成されていたのが、氏姓制度による「古墳時代の社会秩序」です。氏姓の「氏」は葛城氏・大伴氏・物部氏など各豪族が名乗る「氏(うじ)」、「姓(かばね)」は「臣」「連」「直」など朝廷から頂く称号のことです。これに中央政府から認められる「前方後円墳」築造のライセンスが加わって、連合政権体制が維持されていました。