密教には、いろいろな行があるでしょうが、基本は「三密」です。「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」それぞれについて、要点を述べておきます。
「身密」は身体を用いる行で、その基本は「手」にあります。手には大きな働きがあり、脳神経においても手は広い領域を占めております。
密教には、いろいろな行があるでしょうが、基本は「三密」です。「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」それぞれについて、要点を述べておきます。
「身密」は身体を用いる行で、その基本は「手」にあります。手には大きな働きがあり、脳神経においても手は広い領域を占めております。
密教とは一体何でしょうか。超能力を開発したり、願いを叶えたりするための祈祷仏教と思っている人も多いことでしょう。「秘められた教え」と言われる密教は、その名からも謎めいた不思議な雰囲気を感じます。
密教に対して、普通の仏教を「顕教(けんぎょう)」といいます。普通の仏教は、釈尊という実在の人物を通して学ぶ仏教です。一方密教は、顕教の背後にある大宇宙の統一原理(大日如来)から直接示される教えのことで、それは自分で直接掴まなければなりません。
空海は『三教指帰(さんごうしいき)』という本を著します。儒教・道教・仏教を比較し、仏教が一番優れているということを示したのです。それは、立身出世の道から決別し、仏教によって真理探究の人生に邁進することへの決意表明でした。
空海(西暦774~835)は平安時代初期の僧です。唐に渡って密教を学び、真言宗の開祖となりました。
空海は讃岐の豪族・佐伯氏に生まれ、叔父で伊予親王の侍講である阿刀大足(あとのおおたり)から儒教を学びます。18歳で大学明経科に入り、将来の立身出世が約束されていました。
仏教によって、日本人の心根が深まったと述べました。それは、仏教が日本化することによって成されたと言えます。日本仏教の特徴を挙げるならば、下記5点を外せないと思います。
第一は「現世肯定」です。元来は現世の苦痛を除き、輪廻転生しなくても済む自分を養うところに仏教の意義がありました。それを、現世を「仮の世」としないで肯定し、この世を本舞台と心得るよう意識を転換させたのが日本仏教です。
釈尊はまた、「平等」の大切さを説きました。最古の経典である『スッタ・ニパータ』に、次のような釈尊の言葉が出ています。生まれによって賤しい人やバラモンになるのではなく、行為によって賤しい人やバラモンになる。
バラモンは祭祀を司る司祭階級のことで、インドの身分制度であるカーストの中で最高の位置にあります。釈尊は、生まれによって人を差別するなと言って、カースト制度を否定したのです。この平等観は、女性に対する蔑視や軽視の否定ともなりました。
仏教の話を聞いたときに、「小乗」「大乗」という言葉を耳にしたことがありませんか。釈尊が入滅して約500年経った頃、仏教界に革新が起こりました。それは西暦紀元前後頃のことで、自分ひとり救われて終わるのではなく、一切の衆生(命あるもの)を救済してこそ釈尊の教えに叶うと考える仏教徒が現れたのです。
あらゆる結果には原因がある、というのも仏教の教えです。それを因果応報と言います。「因」は原因、「果」は結果、「応報」は自分の行為に応じて受ける報いのことです。善因には善果が、悪因には悪果が応報します。
この因果応報によって起こるのが「輪廻転生(りんねてんしょう)」です。現世の行為によって来世の生活と運命が決まり、車輪が回転し続けるように何度も生まれ変わっては苦労を重ねることになるのが輪廻転生です。
ところで、本来の日本思想では、「無」(あるいは「空(くう)」)についてあまり言いませんでした。実在を尊ぶ日本人にとって、無という概念は馴染みがなかったのです。
無の意味を大和言葉で補足しておきます。無は訓読みすれば「ない」です。「ない」の「な」は、仲間・凪ぐ・和やか・鞣(なめ)す・滑らか・並ぶ・馴れるなどの「な」で、調和の意味を持ちます。
次に「無」ついて述べます。我欲への囚(とら)われや拘(こだわ)りから、離れるべきことを教えているのが無の思想です。無我や無欲、無執着の無であり、仏教に欠くべからざる哲理となっています。
無を悟れば、心の自由を得る道が開けます。自分を縛っている低レベルの私利私欲、即ち煩悩から離れていくことになり、それを解脱と言います。今現在の小さな殻を破り、本来の大きな自分を取り戻すための哲理として、無は綜學に必要な思想でもあるのです。