チャイナに存在した、唯一の女帝が則天武后(武則天)です。唐の高宗の皇后であった則天は、皇帝の病中に政務を執り、その死後に即位した実子二人(中宗と睿宗)を廃して帝位に就きました。
この則天の撰による『臣軌』という本があります。臣軌とは、臣下が持つべき軌法、即ち皇帝に仕える者の心得のことです。
チャイナに存在した、唯一の女帝が則天武后(武則天)です。唐の高宗の皇后であった則天は、皇帝の病中に政務を執り、その死後に即位した実子二人(中宗と睿宗)を廃して帝位に就きました。
この則天の撰による『臣軌』という本があります。臣軌とは、臣下が持つべき軌法、即ち皇帝に仕える者の心得のことです。
筆者の子供の頃、少女漫画の中に出てくる主人公の女の子は、父親が会社員で、さほど裕福ではない家庭に育ち、性格はとても善良、勉強はそこそこに出来るというタイプが一般的であったと記憶しています。それに対し、主人公を虐(いじ)める性悪(しょうわる)な子は、事業家か何かの金持ちの娘で、贅沢でワガママという設定でした。
◆四元論と四観◆
綜學の実践編の続きとして、今度は「四元論」を述べます。四元論は、二元論の行き詰まりを打開するための哲学であり、綜學の「ものの見方」の基本となる思考法です。物事を四つに分ける四元の思考だから、「四元思考」とも呼びます。この四元論を、いろいろな場面で生かして頂くことが、綜學の大切な実践となります。
漢方では身体と精神を分離しない。怒り過ぎると「肝」を、喜び過ぎると「心」を、思い込み過ぎると「脾」を、悲しみ過ぎると「肺」を、恐れ過ぎると「腎」を悪くすると述べましたが、このことは経験的に何となくお分かり頂けるものと思います。
肝臓にはアルコールを分解する機能がありますが、怒りのストレス解消のために深酒すれば肝を悪くします。あまりにも嬉しいことの後で、ほどなく亡くなる人が出るというのは、感極まって心臓がショックを受けたせいかも知れません。
鎌倉仏教開祖の中で、栄西の知名度は最下位と言えます。生前は、皇室を助け、二度も入宋し、宋皇帝を感動させ、幕府のある鎌倉には寿福寺を、天皇がお住まいの京都には建仁寺を持ち、日本仏教の振興に大いに力を尽くしたにも関わらず、法然・親鸞・道元・日蓮らのような“人気”が無いのです。
二度の入宋を果たした栄西は、帰国後まず九州各地に寺を建て、その教えを伝えます。栄西による臨済禅が、九州の人々に広まりました。
しかし、急速に拡大すれば、必ず既存の勢力と摩擦が生じます。延暦寺の圧力によって、朝廷は禅宗の布教を禁止してしまいました。この延暦寺の権威主義に嫌気が差したところに、そもそも栄西が比叡山から下りた理由がありました。
もう一度宋に渡ろうという決意をしたのは、栄西の心の中に「このまま終わってなるものか!」という思いが湧き起こっていたからでしょう。栄西は44歳になっていました。昔は人生50年と言いましたから、もう新しい事を始められる年齢ではありません。隠居を心に決めてもおかしくない年齢で、海外留学を志したのですから本当に凄いことです。
しかも、栄西の気持ちは宋に留まっていません。その先のインドに向いていたのです。即ち、釈尊の原点に帰ろうとしたのです。
最澄が比叡山延暦寺を創建したのは、まだ平安時代初めの延暦7年(西暦788年)のことでした。延暦寺は、日本仏教の根本道場であり、都の鬼門を守る国家鎮護の大寺として建立されました。
ところが、どんな組織・団体にも“経年劣化”が起こります。時代を経ると共に初期の純粋な情熱が失われ、活動が惰性で行われるようになっていきます。延暦寺もその例から外れることが出来ず、次第に巨大な権威の固まりと化し、世俗と変わらない名利を競い合う場に堕ちてしまいました。
神社やお寺にお参りすると、何とも言えない清々しい気持ちになります。心身に溜まっていた暗い気分が、お祈りで祓われるからです。さらに、神職に大幣(おおぬさ)でバサバサと祓って貰えば、もっと清まることになります。
最澄の時代、そのお祓いにとても関心が集まっていました。平安時代は、怨霊(おんりょう)による祟りを恐れ、病気もその仕業であるという考え方が“常識”だったのです。怨霊とは、怨みを抱いて祟りを起こす悪霊(あくりょう)のことです。悪霊をしっかり祓って貰いたいというのは、当時の人たちの切なる願いであり、有効なお祓いの出来る祈祷師が必要とされました。