軍隊の指揮系統を有効に機能させる上で用いられる旗や幟、鐘や太鼓。これらを現代に置き換えると、一体何になるでしょうか。月並みではありますが、以下の事柄を挙げておきます。
目に訴えるということでは、お揃いの制服やネクタイ、バッジなどです。それらは同じ目的を持ち、使命を担っている仲間の一員という自覚と、任務を果たすための責任感を呼び起こします。
軍隊の指揮系統を有効に機能させる上で用いられる旗や幟、鐘や太鼓。これらを現代に置き換えると、一体何になるでしょうか。月並みではありますが、以下の事柄を挙げておきます。
目に訴えるということでは、お揃いの制服やネクタイ、バッジなどです。それらは同じ目的を持ち、使命を担っている仲間の一員という自覚と、任務を果たすための責任感を呼び起こします。
「指揮系統」は、原文では「形名」です。形名の「形」は目に見えるもので、具体的には旗や幟(のぼり)のことです。「名」は言い表すこと、即ち音に出す号令のことで、耳に聞こえる鐘(かね)や太鼓の音がそれです。目に訴えることで高揚感を起こし、耳に響かせることで士気を高め、全員の動きを整えてまいります。
指揮系統は、紙に書いた組織一覧表のことではありません。組織編成が出来上がっただけではダメで、実際に動く仕組みとならねば指揮系統とは言えないのです。
人が集まる団体にもいろいろありますが、目的に向かって行動を起こすときは、組織として一丸とならねばなりません。
ただ人が群れているだけの集まりはサロンと言います。昔、文学者が三々五々(さんさんごご、あちらに三人、こちらに五人というふうに散り散りに出入りする様子)やって来る喫茶店があって、その群れを文学サロンと呼んでいました。文学仲間と交流することで、刺激を受けたりヒントを貰ったりしていたのです。
いくら勇猛な兵士が揃っていても、バラバラに戦っていたのではダメです。軍全体として統括された戦いが出来るようでないと、個々の戦闘では勝っていたのに大局的には敗戦という結果になります。
また、兵士が大勢(おおぜい)揃っただけでもダメです。部隊編成と指揮系統が確立していないと、ちぐはぐな戦いとなって、やはり大局的には負けていきます。
続いて孫子は「地は度を生じ、度は量を生じ、量は数を生じ、数は称を生じ、称は勝を生ずる」と述べました。
「地」は、国土の広さや戦地への距離です。それを計測(度)すれば、確保出来る資源・食糧や投入すべき物資の「量」が読め、そこから養える人口と動員可能な兵士の「数」が分かります。その上で戦力の優位性(称)が定まってくれば、勝利(勝)が見えてくるという次第です。
前線で奮戦し、戦闘で勝ったとしても、本国の政治が悪ければ折角の勝利も水の泡と化します。華々しく戦う将軍の人望が高まり、国民から英雄視された場合、本国の大臣たちが嫉妬して、必要な武器や物資・食糧の輸送を止めてしまうといったことも起こり得ます。味方に足を引っ張られ、酷ければ殺されてしまうことすらあるのですから、将軍は本当に大変です。
「大局の誤りは中局では救えず、中局の誤りは小局では補えない」。これは、筆者が大局観の必要性について話すときの言葉です。
例えば、運動場にラインを引くときは、50メートル以上の巻き尺を用います。部屋の中に家具を入れるときは、数メートルのメジャーを壁に当てます。デスクワークで帳面に線を引くときは、20~30センチの物差しを使います。
こうして真の勝ち方には、名誉も功績も与えられません。しかし「勝利を確保するのに、既に敗れている相手に勝っているから」誤りがありません。「戦いの上手な人は、不敗の地に立ち」、敵が敗北へ向かうよう常に努めているのです。
結論を言えば「勝利する軍隊は、あらかじめ勝っておいてから戦いを起こし、敗北する軍隊は、まず戦いを起こしてから勝利を求めていく」ということになります。
兎に角、素人が熱狂する大技のプレーと、玄人や専門家が評価する巧妙なプレーの間に、大きな開きがあるということを知っておく必要があります。
これが戦(いくさ)なら、前者は民衆の拍手喝采を浴びることになるでしょうが、本当は危険な戦い方です。後者は通(つう)にしか理解されないものの、実は安心感のある勝ち方となります。
何かの競技や戦いで「一般の人々でも分かる程度に過ぎない勝ち方」が起こるのは、大きな実力差があるときか、そうでなければタイミングが偶然合ったことで、たまたま勝利した場合でしょう。派手なスタンドプレーが功を奏し、最初から大技で決着を付けられたようなケースがそれです。