この世界では、心が一切を決めている…。それを「唯心」と言います。
「心が乱れていても、体が乱れていても、万象は乱れて見えるので、そのことをそう見ながらそう見えるのである。そう思うからそう思えるのである。心清ければ一切清く、心たのしければ一切たのし(三界は唯心の所現)と言っている。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.107.)
「三界は唯心の所現」は『華厳経』から出た言葉です。三界は、人間が住む世界全体のことです。その世界を現しているのは、唯(ただ)人間の心(唯心)だけで、心に思うことだけが現れてくるのだから、心の持ち方が大切であるということを諭している大乗仏教の教えです。
この教えによれば、自分の心の通りに世界が見えてきます。自分の心が乱れていれば、そのまま世界が乱れて見えるし、体が乱れていれば、そのように万象(あらゆる現象)が乱れて見えます。つまり、対象をどう思うか(見るか)で「観え方」が変わり、どう見るか(思うか)で「受け止め方」が決まってしまうというわけです。
現実には、こちらの心が清ければ一切が清く見えるかというと、必ずしもそうとは言えません。自分の心が清くても、ウンチはやっぱり臭いです。自分は整理整頓の心をもっていても、ご近所は汚いということがあるでしょう。また、自分の体に乱れが無く、明るい心でいられたとしても、とばっちり受けて思わぬ争いに巻き込まれることがあります。
しかし、自分の見方によって、周囲(世界)を固定化してしまうことは普通にあることです。一旦(いったん)嫌な奴だと思えば、相手の言う事・為す事全てをウソ臭く感じ、一切の言動に対して疑って掛かるようになります。信じられない嫌な奴だとガッカリすれば、それ以来、事ある毎に蔑(さげす)んでしまうようにもなります。
それが拡大し、人間をただ欲の固まりとしか見なくなれば、それしか見えなくなるため、実際にそういう人間ばかりが身の回りに集まって来る(見えてくる)でしょうし、世の中はウソだらけ・争いだらけだと思うようになれば、もう人間の汚らしさ・醜さにしか目が行かなくなります。そういうことを「三界は唯心の所現」と言ったわけです。(続く)