さあ、どうやってくつろいだらいいかです。のんびりコーヒーを飲みながら甘味
を味わうことも、美味しいお酒を嗜むことも、(可能ならば)しばらく午睡を取ることも、美術館や博物館を巡ったり、寺社参りの旅行に出掛けたりすることも、心身をくつろがせてくれます。
人生にとって、これらはとても必要なことですが、沖正弘導師が「くつろぐことの大切さ」において言われたい本旨は、さらに奥にありそうです。
くつろぐことは、単なる氣分転換に終わりません。心身が統一されている中で肩の力が抜けていることや、腰(丹田)に中心力が定まりながら余分な力が抜けていることや、あるいは熱く志に向かいつつ、冷静な知性・感性を保っている状態のことでもあります。
よく「リラックスしなさい」、「力を抜きなさい」などという指導を受けると、必要な氣迫が消え、腰の力まで抜けてしまう人がいます。それは、床にべったり座る「へたりこみ」であって、くつろぎとはかなり違うものです。
大和言葉の音義で考えてみましょう。「くつろぎ」の「く」は組む・括るの「く」で結合を、「つ」は続く・つながる・連なるの「つ」で連続を意味します。
そして、「ろ」は舌を巻くラ行音であるから変化・活動を、「ぎ」はきつい・厳しいの「き」の濁音で強さや激しさを表しています。(※くつろぎ、くつろぐ、くつろげなどと活用されますが、「ぎ」も「ぐ」も「げ」も、破裂音であるカ行音の濁音として強さを表しています)。
こうして、「くつろぎ」の音義は、単にゆっくり・のんびりすることではなく、力強い動きによって結合を連続させるということになります。即ち、心身の統一的結合を、余分な力を抜き、ムダの無い動作を連続させることで起こしていくのが、くつろいだ生き方・在り方の本義であると。
生きるということは問題解決の連続であり、常に緊張感の中に身を置いているのが人生です。そういう中で、いかにして活動と休息のリズムを取るかです。
動きながらくつろぎ、働きながらくつろぐ。達人はそれがよく出来ており、だから天とも神仏ともつながって、常人には難しい創造的活動をやってのけたのでしょう。(続く)