其の四十一 美しいと感じられるのは、そう感じている本人の心が美しいから

何かを見て美しいと感じられるのは、そう感じている本人の心が美しいからです。たとえば、無私の心で一所懸命人に尽くす姿を見たとき、我々は「なんという美しい生き方だろう」と感動します。

それは、自分の心の中にも同じように美しさがあるからで、「いや、善い人と思われたいから、無理して他人の世話を焼いているだけだよ」などと疑念の心を浮かべてしまうようなら、実際に相手が邪(よこしま)な人間であるか、あるいは自分の中に曇った心が宿っているかのどちらかでしょう。

お花見をするときもそうです。花の美しさを本当に味わっているなら、その花見をしている人の姿そのものも美しいはずだと。無遠慮に人を押し退けたり、無風流に騒いだりしているのは、真に美しい物を見ている様子とは言い難いと兼好法師は批評します。

そして、美しい物を美しいと感じるのが、心の美しさによるものであるならば、以前に見た情景を心の中で浮かべることによっても、その美しさを再現することが可能であると法師は唱えます。

《徒然草:第百二十六段》其の一
「おしなべて月や花は、ただそのように目で見るものばかりだろうか。春は家から出て行かなくても、(秋の)月の夜は寝室の内にいながらでも(情景を)思い浮かべることは、とても心豊かで趣がある。

教養のある人は、ひたすら好いているようには見えず、面白がる様子もあっさりしている。

片田舎の人は、しつこく何事にも面白がる。花の木の本には、(見物客の中へ)体をねじり込みながら割り込んで近寄り、よそ見もしないでじっと(花を)見つめ、酒を飲み、連歌をし、果ては大きな枝を心なく折り取ってしまう。また、泉には手足を突っ込み、雪の上には下り立って足跡を付けるなど、すべての物に対して離れて見るということがない。」

※原文のキーワード
おしなべて…「すべて」、ただそのように…「さのみ」、出て行かなくても…「立ち去らでも」、寝室…「閨(ねや)」、思い浮かべる…「思へる」、とても心豊かで趣がある…「いとたのもしうをかし」、教養のある人…「よき人」、ひたすら…「ひとへに」、好いているよう…「好けるさま」、面白がる…「興ずる」、あっさり…「なほざり」、しつこく…「色こく」、何事にも…「よろづは」、体をねじり込みながら割り込んで近寄り…「ねぢ寄り立ち寄り」、よそ見…「あからめ」、じっと見つめ…「まもりて(目守りて)」、突っ込み…「さしひたして」、すべての物…「よろづの物」、離れて…「よそながら」(続く)