何かの行事を見物する場合、その主たる展示物や、メインとなる出し物だけ見て、「これで見物は済んだ」と思い込むようでは残念です。行事の準備から終了後に至るまで、全体を流れとして味わってこそ、しみじみと心に染み入るものがあります。
見物は、力んでギョロギョロ見るのではなく、無理せず自然体で味わうほうが、むしろ本質を深く掴むことが出来ます。力むほど下品となり、端から見たときの美しさに欠けていきます。また、部分しか見えなくなってしまいます。
力を抜いて、さりげなく見る。でもしっかりと物の価値を感じ取っている。そういう素養を身に付けたいものですね。
《徒然草:第百三十七段》其の二
「そのような無風流な人が賀茂祭(京都の葵祭)を見物する様子が、大変珍妙だった。見る物(祭りの行列)は、ずっと後だ。それまでの間は、桟敷(さじき)にいる必要は無い」と言って、奥の部屋で酒を飲み、物を食べ、囲碁や双六(すごろく)などで遊んでいる。
桟敷には(見張り役の)人が置いてあり、「行列がお渡りです」と聞くと、それぞれ肝が潰れるくらいに争い合っては桟敷に走り登っていく。そうして、落ちそうになるまで簾(すだれ)を前の方に張り出して押し合いしつつ、一つも見逃すまいと見守っては、「ああだの、こうだの」と事ごとに批評している。
やがて行列が渡り過ぎると、「また次が渡るまで(奥の部屋に戻ろう)」と言って降りてしまう。だから、ただ(行列という)物を見ようとしているだけなのだろう。
都の身分の高そうな人たちは、目をつむったまま、たいして見ていない(じろじろ見ようとしていない)。また、都の若い下々の者たちは貴人に仕えて立ち働き、(その若い下々の者たちの中で)後ろに付き従っている者らは、不調法にも前に乗り出そうとはせず、無理に見ようとする人はいない。」
※原文のキーワード
そのような無風流な人…「さやうの人」、大変珍妙…「いと珍らか」、見る物…「見事」、ずっと後…「いとおそし」、それまでの間は…「そのほどは」、必要は無い…「不用」、落ちそうになるまで…「落ちぬべきまで」、一つも見逃すまいと見守って…「一事(ひとこと)も見もらさじとまぼりて」、ああだの、こうだの…「とあり、かかり」、事ごとに批評して…「物ごとに言ひて」、身分の高そうな…「ゆゆしげなる」、目をつむったまま…「ねぶりて」、たいして見ていない…「いとも見ず」、若い下々の者たち…「若く末々なる」、貴人に仕えて立ち働き…「宮仕へに立ちゐ」、付き従っている…「さぶらふ」、不調法にも…「様あしくも」、前に乗り出そうとはせず…「及びかからず」、無理に…「わりなく」(続く)