其の四十二 どんな物事も、盛んなときばかりがいいのではない…

長文の第百三十七段には、兼好法師の深い美意識が、具体的な事例であれこれ表現されています。どんな物事も盛んなときばかりがいいのではなく、むしろ始めと終わりが趣き深いと。そして、その美的感覚を共有出来る友人がいて欲しいとも述べています。

絶頂期などと呼ばれる時期は、想像以上に短いものです。だから、全盛のときにしか喜びを味わえないようでは、人生は浅薄且つ貧困となります。今が本番という盛期の喜びもいいが、始まる前の期待感や待つときのワクワク感、あるいは過ぎ去った後の哀感や思い起こしての感慨に、しみじみと味わうことの出来る満足感が存在するものです。

そういうところに法師の美的感覚があり、花ならば、間もなく咲きそうな梢や、散り萎(しお)れた庭を見るのがいい。月ならば、曇り無い空に輝いているときよりも、明け方になってやっと出て来るときや、木(こ)の間や雲間に見え隠れしつつ眺められるときのほうがいいとのことです。

それは、人間関係にも通じます。恋愛も、その盛んなときばかりでなく、逢えるかどうかでヤキモキしたり、ふられてしまって儚(はかな)い契りを嘆いたり、昔日の逢瀬を思い出したりするところに身に染みる味わいが存在します。

そうした自然や人間への細やかな感覚は、同じレベルの繊細な感受性を持ち合わせた人同士でしか共感し合えません。残念なことに、いくら言おうが、どう表現しようが、そもそもその事に対するセンサーを持ち合わせていないという人がいるものです。

花や月の真の美しさを、その幽寂な感性で受け止めたときくらい、センサーの無い人ではなく、一人でいいから心を通じ合える友が側にいてくれたらなあと思うことはありません。

通信手段の発達した今なら、感動したことを即座にSNSなどで配信し、分かり合える親友や、多くの友人知人に共感を求めることが出来ます。それでも、同じ場の同じ空気感のもとで感激を共にすることとは全然違います。

やはり、美意識や価値観が共有され、会話が成り立ち、感動するポイントが重なり、感激のタイミングがよく合う相手がいてこそ、人生はとことん楽しくなるわけです。(続く)