こんにちは。本日は「春の氣はじめて立つ」立春です。
【ご案内】2月15日開始の、やまとことば古事記語り部:言本師養成講座
(第三期)に、1名様のキャンセルが発生しましたので追加募集いたします。
詳しくはホームページをご覧くださいませ(8月からの第4期も受付中です)。
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◆日記(2日~3日)
・2日(水)東京・経世志塾で講義~シナ唐代の帝王学の書『帝範』『臣軌』
・3日(木)政経倶楽部:東京例会(講師は副島隆彦氏)に参加。本部会議出席
●評論・随筆●
◆リーダー向けの帝王学や側近学を学びたいというリクエストが増えている!◆
昔、次のような話を何かの文で読んだ記憶があります。うろ覚えですから、元の話と違う点はご勘弁ください。
小学校3年生くらいの生徒に、教師が質問しました。「サル山のボスが死にました。どうしたらいいですか?」
ある生徒が答えました。「他から新しいボスを連れてくる」。
その答を聞いた教師は、激怒して貶(けな)します!「その答は最悪です。せっかくボスが死んだのだから、みんなで協力しなさい。ボスのいない平等社会を作るべきなのです」。
生徒の言う「新しいボスを連れてくればいい」という答は、群れにボスは必要なのだから次のボスを選べばいいという当然の発想でした。
そもそも「みんなで協力する」ためにこそ、ボスと呼ばれるリーダーが必要です。だからその生徒は、実に素直な解答をしたと言えます。
ボスなんて害悪であって、いないほうがいいという教師の考え方こそ、富貴な者(権力者や金持ち)全てを悪人と捉える共産革命主義的な思考と言えましょう。権力者や金持ちを打倒すれば全てが解決し、永遠に貧富の差のない平等社会が実現されると。
しかし、現実には富貴な者全員が悪人ということはありません。この世には、富貴にして善人、貧賎(貧しくて身分が低い)にして善人、貧賎にして悪人、富貴にして悪人の4通りが存在しています。そうであれば、より多くの人々に富貴な善人になって貰うことのほうが大切であり、社会の目標ともなるはずです。
ところが明治以降、個人主義教育が盛んになったため、多くの能力の高い者が身勝手な富貴+悪人タイプと化してしまい、その影響もあってか、ボスは不要という指導者否定の教育が施されるようになりました。それが「サル山ボス不要論」に繋がったのだろうと推測します。
確かに、人民や国民を圧政で苦しめる独裁者や暴君は不要です。しかし、人間社会には、まとめ役となるリーダーがやはり必要です。
誰かがその人徳で主(ぬし)や頭(かしら)とならねば、人間社会はまとまらないし進歩もしません。理念をもとに、リーダーとして全体を統合し、大方針を打ち出し、最終責任を負い、その器量で仲間を集め、関わる者たちの天分を生かし、諦めることなく努力を重ね、困難を乗り越えて共通の目標を達成していく。これらは主や頭の役割であり、しかるべきリーダーが先頭に立ってこそ為し遂げられていきます。
いや、やっぱりボスは不要だし、指導者の存在は認めたくない。上の立場の者に酷く苦しめられた経験を持つと、そういう気持ちになることはよく分かります。
でも、いつまでもそういう思考のまま、指導者否定の教育ばかり行っていると、その国から次第にリーダーに就く人財・人物が枯渇し、衰亡の一途を辿(たど)ることになりかねません。
リーダーにはリーダー向けの教育が必要です。平均化・画一化された戦後教育を脱し、指導者やまとめ役に向く若者たちを見出し、仁や義、誠を軸に据えさせ、堂々とその天性・天分を発揮させるよう、教育そのものを革新しなければなりません。
実は最近、リーダー向けの帝王学や側近学を学びたいというリクエストが増えております。個々バラバラではなく、もっと繋がり合いや関わり合いが欲しい。自分らしさを隠さず出して構わない、堂々とした集まりに身を置きたい。そして、人間集団のまとめ方というものについて学んでみたい。そういう人たちのためにも、人間学や帝王学に磨きをかけてまいります。