皮肉屋、批判屋、嫉妬屋は、ほとほと困る…(熊王先生の教えから)

こんばんは。明後日23日(火)は天皇誕生日です。スメラミコト弥栄!

◆日記:2月20日(土)、東京綜學院で講義しました~吉田松陰と松下村塾
◆今週の予定
24日(水)オンライン国会綜學勉強会~空海と真言密教
25日(木)東京綜學院オンライン補習~原大本徹発表(11名予定)
28日(日)「NHK文化センター」でオンライン講義
午前11時~12時30分
講座名 「アフターコロナを見通すための文明法則史学入門」
※詳細とお申込はこちらからお願いします↓
www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1224902.html

評論・随筆

皮肉屋、批判屋、嫉妬屋は、ほとほと困る…(熊王先生の教えから)

昔の英才と呼ばれた者は、人徳と才覚を兼ね備えておった。人格に優れ、知恵も豊かであったのじゃ。

実際、いくら人格が優秀でも、世間の心の動きと時代の変化を読み、それに対応出来るようでないと役には立たん。とりわけ政治家には向かないのう。やはり人徳・人格と、才覚・知恵の両方が欲しい。

但し、世間知という「世の中を巧く渡る知恵」を沢山持っているのに、心がねじけていると害が多くなる。皮肉屋、批判屋、嫉妬屋などは、ほとほと困り者じゃ。(2月18日)

転換期の担当者は、称賛よりもはるかに非難のほうが多いことを覚悟せよ!

バスの乗客は、つい自分のことだけ考えてしまう。ある客は、目的地に早く着くよう、もっとスピードを出せばいいのにと思い、別の客は、そろそろトイレに行きたいから、次のサービスエリアで休憩して欲しいと願う。

運転手は、客のいろいろな要求を受け止めつつ、安全で遅れることなく目的地に到着するよう努めねばならない。そして、運転中はアクセルとブレーキを踏み分けつつ、バスを先へと進めていく。スピードと安全という二つの要素を満たすよう、アクセルとブレーキの両方を使いこなしているのである。

運行上の責任を負っている運転手は、まさにバス交通の担当者だ。何事であれ担当者は、常に相反する二つの事柄を調整しつつ職務を遂行せねばならない。バスの運転ならスピードと安全という二つの事柄の調整であり、政治家によるコロナ対策なら感染抑制と経済維持という二つの事柄の調整ということになる。

担当者は本当に大変だ。一方的な要求を口にしてしまう乗客に対し、運転手は冷静にスピードと安全の両方を満たしていく役割を持つ。あるいは、政治家なら感染症の流行を抑えながら、同時に経済と社会を守っていく任務がある。乗客の願いであれ国民の要求であれ、それは当然出て来る声ではあるものの、担当者では無い分、一方的に叫んでいても責任を問われたりしない。

しかし、責任を負っている担当者は違う。常に尽きない憂いを抱えながら、悩み悩み調整に励んでいかざるを得ない。事態が深刻化し通常の調整で済むレベルを超えた場合は、どこかに犠牲を求めながら、全体としての被害が小さくなるよう決断を迫られることもある。

ところで2月1日、ミャンマーで国軍によるクーデターが発生した。昔のような軍事政権による不自由さを嫌う国民は、抗議デモを起こして抵抗している。これに対し、西側諸国は協力し合って圧力を掛け、軍事政権に戻ることの無いよう促さねばならない。

その際にも、同様に二つの事柄の調整が不可欠となる。その一つは、軍政へ逆戻りさせないための制裁。もう一つは、追いやり過ぎて孤立させ、チャイナに急接近させてしまわないための協力だ。

ミャンマー国軍としても、チャイナに飲み込まれていいと思っているわけではない。ミャンマーとチャイナの間には、長い国境線があって普段から緊張している。対立を避けながら互恵関係を構築し、自国の安全と自立を図ることに苦心しているはずである。

そういうことから、何かをまとめなければならない転換期の担当者には、人格の優秀さや人間的な器量と共に、以下のような心得が求められよう。第一に、矛盾する二つの事柄を繋いでいくための全体把握能力。第二に、進むべき方向と手順を明確に示せる目標設定能力。第三に、そこへ進む意義をきちんと人々に理解させられる目的説明能力。

全体を把握して二つの事柄を認識し、どこへ向かうのかという目標と、そこへ進む意義は何なのかという目的を明らかにするところに担当者の存在意味がある。

そして、成功しても、称賛よりもはるかに非難のほうが多いのが、担当者となった人物の宿命なのである。
(2月19日、日本政経連合総研レポート第46号より)

外側を固くし、ガードを強化することで維持されてきた人生からの脱皮!

35年くらい前、「外骨格型人間と内骨格型人間」という題で拙論を述べた。言うまでもなく人間は内骨格を持った生物であるが、精神的に見ると「外骨格型人間」に相当すると思われる場合がある。

外骨格型は、外側は固い殻で覆われているものの、中身は柔らかい肉で構成されているカニやエビみたいなものだ。一見強そうだがバックボーンを持たないため、どうしても周囲に対する柔軟性に欠けてしまうことになる。

一方、内骨格型は、内部にガッシリした骨(内骨格)があり、外側は柔らかい筋肉や皮膚で覆われている。内骨格というのは信念となるバックボーンに他ならず、筋肉や皮膚は人当たりの良い柔らかさに相当する。気は優しくて力持ち、そして芯が強いというのが内骨格型人間なのである。

両者は、男にも女にも、与党にも野党にも存在する。問題となるのは外骨格人間であり、ちょっとした事にも反発し、酷ければ男の場合は偉ぶって威張り散らし、女の場合はヒステリックに怒鳴り散らす。一部でも気に入らない点があれば直ちに反発し、兎に角聞く耳を持たない。

困ったことに、外骨格型人間が学習に励むと、益々ガードを固くしていくことにもなる。というか、ガードを一層固めるために、新たな知識や言葉を獲得してしまうのだ。

結局それは、自分を支える背骨(内骨格)が不十分なところに原因がある。体全体を統一する中心軸が弱いので、しなやかな精神状態を保つことが難しいのだ。

外骨格型人間の人生は、外側を固くし、ガードを強化することで維持されてきた。そこにも努力があったことは確かであろうが、このままだと現在の殻の中でしか大きくなれない。

そこで、まず一皮脱皮して、より高い人間力や包容力を有する内骨格型人間に、どうやって進化していくかだ。既に一つの人生モデルが出来上がっている場合、殻を破るのはなかなか大変な作業となるかも知れない。

もしも一段進化したければ、どうして外骨格型になってしまうのかという理由を、人生の原点から探してみるといい。それを発見できれば、内骨格型への道に光が差してくると思う。

外にも内にも骨の無い人に比べれば、はるかに立派なのだから、ここで進化への道を選択してみてはどうだろうか。(2月21日)