本当の自分が分からない、という辛さと孤独感…

こんにちは。少しずつ涼しくなってきましたね。
エアコンの風に長く当たることが苦手な私には、とても嬉しいことです。

「塾士」~林塾出身の志士政治家
「綜學院生」~旧名古屋綜學院、京都綜學院、東京綜學院
「言本師」「言伝師」~古事記「絵本やまとことば神話」語り部

上記の皆さんによる大同団結国民運動が、いま活発に展開しています!
22日の「大綜學祭り」や、23日の春日大社「神前朗読奉納」によって、綜學一門の結束が高まりました! ありがたう(ありがとお)~

◆日記(9月18日~24日)
・18日(水)助手の応援で浜松事務所の草取り。事務所内の掃除。修士論文修正
・19日(木)修士論文修正。夜は古事記語り部「言本師」養成講座のオンライン講義
・20日(金)実家の両親を見舞う。仏壇の曾祖父母・祖父母に般若心経を上げる
・21日(土)関西林勉強会で勝海舟の生き様について3時間講義。於:難波神社
・22日(日)大綜學祭りで講義。ゲスト講師は畑中政昭高石市長。於:大鳥大社
・23日(月)神話語り部+綜學院生+林塾塾士合同神前朗読奉納。於:春日大社

==========

【ご案内】
◆来春、「綜医學」講座をはじめます!
林英臣が長年に亘って説いてきた、綜合学問である「綜學」。
その各論であり、綜學の実学的集大成とも言える「綜医學」講座を、来年春(4月)から開講します。

医療人には、さらにその天職に自信をお持ちいただくために、
経営者には、会社組織をより“健康体”とするために、
政治家には、天下国家を“生命体”として発展させる「国手」となるために、
家庭人には、身近な人たちの健康増進(免疫力向上)を支える綜医學術者となるために学んでいただきたく存じます。

毎月1回、日曜日に開催します。会場は、関西(大阪)を予定しています。
時間は、午後13時から16時までの3時間で、2時間講義し、1時間は「手当て療法」や「言葉療法」、「呼吸療法」などを実習します(手当て 言の葉 長息 長生き)。

オンライン受講や録画受講も可能ですから、全国どこからでも受講できます。
現在、仮予約を受け付けております。講座内容など、詳細は下記フォームからご覧ください。
※受講料は一講1万円ですが、10回通しのお申込で11回受講できる割引制度も予定しています。
docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSfKoNi_b9mkix1rofxJ1sjbnER8qwJS8ItfOyDi9faoDMxANg/viewform

◆note「孫子の兵法」その29
指導者と国民が同じ目標を持っていれば勝つ!
note.com/hayashi_hideomi/n/n1099b9628f99

◆戦前の日本がよく分かる~昭和2年刊行『大國民讀本』を読む!その18
太陽さん、ありがとお~「太陽主義」~太陽のように生きよう!
note.com/hayashi_hideomi/m/m272a54bb39e7

◆YouTube「綜医學(日本医学)」
綜医學と武道療法~「氣迫」「中心軸」「丹田」
YouTube「綜医學」林英臣チャンネルを、是非ともご覧ください。
ご登録も宜しくお願いいたします。

==========

●評論・随筆●

◆本当の自分が分からない、という辛さと孤独感…(9月18日)

「自分」とは何か? それは、哲学・思想の大命題です!

誰だって「本当の自分」を知りたいでしょう。そこで、自己を形成している「関係性」を、一つ一つ取り去ることで求めてみます。ところが、これも違う、あれも違う…となって「本当の自分」は見つかりません。

それどころか、自分を邪魔している手かせ・足かせにしか見えない関係性が、次々と発見されていく有り様です。

悩んだ挙げ句、結局自分が何者なのか、全然分からなくなっていく。それが「悩ましい」ということであり、冷たい孤独感に襲われることになります。

そうなった意識の状態を、虚無主義やニヒリズムといいます。私の古い恩人も、若い頃虚無主義に陥りました。辛くて、もう死のうと思ったとき、友人のある一言で思いとどまりました。

◆認めてくれる人がいれば、生きてみようという氣になる…(9月19日)

「人生つまらないし、生きていく意味が分からない。いっそ死のうかな…」そう思ったのは私の恩人です。まだ青年のときのことでした。

どこで死のうかな、そうだ橋から飛び下りよう。
とうとう川にかかる橋の上で身投げしようとしたとき、偶然自転車に乗った友人が横を通り過ぎます。

「あっ、○○君。あのね、○○先生が君のこと誉めていたよ」友人は、それだけ言って去っていきました。

「そうか、こんな僕でも認めてくれる人がいるんだ。じゃあ、もう少し生きてみようかな…」。身投げは思いとどまりました。

自転車の友人、誉めてくれた先生。みんな大事な関係性の人たちです。

私に大和言葉の音義や、日本の国柄、世界情勢の真実などを教えてくれた先輩が、その恩人でした。恩人がいなければ、綜學はまとまらなかったでしょう。
私にとって、大事な関係性の人なのです。

◆好きな相手も、嫌な相手も、みんな鏡…(9月20日)

空間にも、時間にも、つながりがあります。
空間では、縁ある人たちとのつながり。
時間では、ご先祖や後に続く人たちとのつながり。

そういう関係性を外して、本当の自分が見えてくるでしょうか…

自分の回りは、自分を映す鏡でもあります。
自分の顔は、自分の目で見ることができません。
でも、相手の顔は見られます。

そして、相手(との関係性)を通して、現在の自分を発見することになります。
今の自分を知りたければ、回りにいる人たちを見ればいいと。
好きな相手も、嫌な相手も、みんな鏡なのです…

◆世界の真実を見よう!(9月21日)

「自由」は、あくまで「観念」であり、「実在」とは違います。
「観念」は、頭の中だけでイメージされるものです。これと、実際に存在する「実在」を混同するわけにはいきません。

そもそも、他と何の関係性も持たず、完全に独立している自由な存在(状態)などというものは、この世界(宇宙)のどこを探しても見当たりません。

いわゆる無条件の自由というのは、あくまで頭の中でのみ描けるイメージにすぎず、大は宇宙(のミナカとクミの関係)から、小は超微粒子同士に至るまで、あらゆる存在が周囲との「関係性」によって成り立っているのが宇宙の真理なのです。

観念であって実在ではない自由を求めると、いろいろおかしな現象が生じてしまいます。

◆ムカついて切れる自由、騒いで目立つ自由?!(9月22日)

「自由」の本来の意味は、「自らに由(よ)る」という自立(自律)にあります。
それが、いつの間にか、勝手主義の自由に変質したようです。

少し古い表現ですが、ムカついて切れる自由、騒いで目立つ自由、働かないでお金を貰う自由、オヤヂ狩りの自由などという“自由”がありました。

それから、援助交際の自由というのもあり、これについて教育現場の教師が「それを注意できる理論が無い」と嘆いていたのを記憶しています。

そもそも自由は観念なのですから、それ自体は実在しません。
従って、「自由などいうものは本来存在しない」ということをもとに、教育理論を組み立てる必要がありそうです。

でも、ある状況に対してより良くしたいときに、自由という言葉を用いることはできます。弾圧政治からの自由、発言規制からの自由、移動制限からの自由などがそうで、前提となる不自由な状況から自由を求めるというのは、とても大事なことです。

◆不自然な平等教育によって、リーダーが育たなくなった?!(9月23日)

この世界の真実として、全く同じものは存在しません。
似ているものはあっても、それぞれ存在する位置が違います。
位置が違えば関係性が異なりますから、「同じもの」は実在しないのです。

だから、いわゆる「同じ」を求める「平等」主義は、観念的な追求に偏って、実在からズレていきます。

そして、実在しない平等を求めると、おかしな現象が生じてしまいます。

学校の学芸会で主役や脇役を無くし、生徒には一言ずつセリフを言わせるだけにするとか、都市伝説とも言えますが、運動会の徒競走で速い子にはゴールの手前で足踏みをさせ、遅い子と一緒にテープを切らせるとか、通知表を全員オール3にするとか・・・、あまりにも不自然な“平等教育”が行われてきました。

その結果、リーダーが育たないという困った現象が生じたのです。

◆人物は否定され、真のエリートは不在となる…(9月24日)

A君とB君に、テストの点で「差」を付けません。
CさんとDさんの、才能の「違い」を認めません。
人より優れていてもいけないし、劣っていてもいけない…

とにかく、主役は要らない。英雄・傑物と呼ばれる、古今の優れた人物は否定されるのみ。そんな教育ばかりしていたら、生徒のヤル気が無くなって、能力や学力が低下する一方となるでしょう。

そして、真のエリートは不在となり、先頭に立つリーダーや、まとめ役がいなくなります。果たして、それで日本がもつのでしょうか。

なお、「平等」という言葉は、元来(がんらい)仏教用語です。阿弥陀如来の慈悲の光りが、あらゆる方向に遍(あまね)く広がっていくことを「平等」と言いました。